シンガポール通信ー村上春樹「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」

さて「海辺のカフカ」の次は、同じく村上春樹の長編小説「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」(タイトルが長いので、以下本小説と呼ぶ事にする)である。これも週末を利用して楽しく読み終える事が出来た。

本小説は1985年村上春樹36歳の時の作品であり、谷崎潤一郎賞を受賞している。1985年は日本がバブル景気に入りかけた頃であり、日本全体が楽天的な雰囲気に包まれていた頃である。私も研究者の端くれであったのに、カラオケ・麻雀・ゴルフというサラリーマンの三大趣味に没頭していた時代であった。

すでに紹介した「海辺のカフカ」が2002年村上春樹53歳のときの作品であり、「1Q84」が2009年彼が60歳のときの作品であるのに対して、本小説はまだ彼が30代のときの作品である。しかしながら一読して、すでに「海辺のカフカ」「1Q84」などと共通した村上春樹ワールドのようなものが確立されていると感じられた。

それはまず第一に、ストーリーテリングの力であろう。全体のストーリーそのものの難易性はおいておくとしても、それぞれの部分で読者を引き込む描写力はたいしたものである。しかし同時に読み終わった時に小説のテーマは何かと考えると少し考えないと不明確である。ストーリーの細部の展開を楽しみながら読み終わったが、結局作者は何が言いたかったのだろうかと思ってしまうのである。ここに、村上春樹のファン・信奉者が多いのと同時に、彼の作品は文学ではないと言って反発する評論家が多い理由があるのかもしれない。

私自身も彼の才能と彼が描く世界の素晴らしさは認めるものの、ノーベル賞候補というと少し首を傾げざるを得ないところがある。もっとも彼の三作品だけ読んで断定するのは不遜というものだろう。このことは他の作品も読んでからまた考える事にしよう。

彼の作品では個々の場面でのストーリー展開(むしろプロット展開と呼んだ方がいいかもしれない)は大変わかりやすい。これは文章が全体として平易である事も大きな理由であろう。ところが、全体としてのストーリー構成や人物関係はかなり入り組んでおり、むしろわかりにくいと一般には思われているのではないだろうか。特に前回取り上げた「海辺のカフカ」は、人物関係などは相当入り組んでおり、読み進んで行く段階では全体像が見えない事も多い。しかし読み終わった後で考えてみると、それらがかなり緻密に構成されている事に気付く。それは村上春樹が小説を書き始める前にストーリー展開や人物関係を入念に考えたからなのか、それとも想像力のおもむくままに書き進んでいても無意識のうちに人物関係や全体としてのストーリーの整合性が取られて行くのか、どちらだろうか。このことは現時点ではわからないのでまた別に論じる事にしよう。

本小説の構成であるが、後期の作品である「海辺のカフカ」「1Q84」に比較するとストーリーが直線性である事、人物関係があまり複雑ではない事などから、後期の作品よりはわかりやすい作品であると言えるだろう。またテーマも、アイデンティティもしくは自己とは何か、そして主人公がいかにして自分のアイディンティティの重要性に気付いていくかという過程だと解釈すると、そのテーマがこの小説全体を通じて常に前面に出ているという意味で、「海辺のカフカ」や「1Q84」に比較するとより文学的な作品であるという事が出来るだろう。谷崎潤一郎賞を受賞しているというのは、ある意味納得できることである。

さてストーリーであるが、この小説では二つの場所すなわち「世界の終わり」と「ハードボイルド・ワンダーランド」(以下「ハードボイルド・・」と呼ぶ)と呼ばれる二つの世界での出来事が並行的に進むのを交互に描くという形式を取っている。二つの並行した世界を設定し、そこでの物語の進行を描きつつ最後にそれらの二つの世界がつながるという物語設定は、「海辺のカフカ」や「1Q84」と同様の手法であり、村上春樹のストーリー設定の一つの典型なのであろう。

(続く)