シンガポール通信ー村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」:まえおき

村上春樹の小説をもう少し読みたいので、先週末はシンガポール紀伊国屋に出かけた。通常は日本に帰国した際に本を買い込んでシンガポールで週末に読むという生活をしているが、手元の本もほぼ読んでしまったし次の帰国は3月下旬の予定なので、シンガポールで和書を買おうというわけである。

シンガポール紀伊国屋はオーチャード通りの高島屋内と、明治屋のあるリャンコートのショッピングセンター内の二カ所にある。通常は週末に明治屋で食料品を買うついでにリャンコートの方の紀伊国屋に出かけるのであるが、本の品揃えという点からは高島屋内の紀伊国屋の方がかなり優れている。

高島屋内の紀伊国屋は、フロア面積も大きく日本で言うと大書店の部類に入るだろう。もっとも洋書(我々から見て)が取り扱いの2/3以上を占めているので、もちろん和書に関してはとても日本の大書店に比べられる水準にはないが、まあ日本の中規模の書店並みの品揃えはある。

文庫本も書棚が何列にも並んでおり、かえって村上春樹の本のコーナーを探すのにかなり手間取ったほどである。村上春樹の文庫本は新潮社と講談社から出版されているが、そのような事も知らず片っ端から見て行ったので、30分以上かかってやっと新潮社の村上春樹コーナーを見つける事が出来た。

長編小説としては「ねじまき鳥クロニクル」を、短編小説としては「神の子供たちはみな踊る」「東京奇譚集」を買い込んだが、いずれも面白くて週末に全部読んでしまった。短編集は、それはそれで完成度が高く楽しめたので別に感想文を書くつもりだけれども、まずは長編小説「ねじまき鳥クロニクル」の感想から。

私が読んだ村上春樹の長編小説の中では(とはいってもここ一ヶ月ほどの村上春樹のにわかファンなので大きな事は言えないが)、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」が1985年、「海辺のカフカ」が2002年、「1Q84」が2009年に出版されており、それに対して「ねじまき鳥クロニクル」は1995年なので、時期的にはちょうど「世界の終わり・・」と「海辺のカフカ」の中間頃に出版された作品である。

「世界の終わり・・」「海辺のカフカ」「1Q84」はいずれも幻想小説としての側面や善と悪との戦いを描いたアクション作品、さらには主人公の成長物語としての側面などを持つが、「ねじまき鳥クロニクル」も同じような要素を持った作品である。その意味では村上ワールドを構成する作品群の典型的な一つだと言えるだろう。

ストーリーはまとめてしまうと、善の立場を代表する主人公「岡田トオル」が、悪の立場を代表する彼の義兄「綿谷ノボル」に拉致された彼の妻(そして綿谷ノボルの妹)「岡田クミコ」を取り戻すべく戦いを挑み、その過程で成長しながら最後には悪を倒すというものである。

まあこのように、長編小説から枝葉を取ってしまって、全体のストーリーを数行にまとめるということは、はたしていいことかどうかもっというと許される事かどうかという問題はある。私自身もこのようにまとめてしまうと、なんだかつまらない小説を読んでしまったような気持ちがして、作者に対して申し訳ない気持ちになってしまう。村上春樹ファンの中には怒りだす人もいるだろう。しかしストーリーを数行にまとめよと言われると、こうなるのではないだろうか。

ちなみに、Wikipediaの「ねじまき鳥クロニクル」の項の「あらすじ」の部分を見ると、以下のようになっている。『会社を辞めて日々家事を営む「僕」と、雑誌編集者として働く妻「クミコ」の結婚生活は、それなりに平穏に過ぎていた。しかし、飼っていた猫の失跡をきっかけにバランスが少しずつ狂い始め、ある日クミコは僕に何も言わずに姿を消してしまう。僕は奇妙な人々との邂逅を経ながら、やがてクミコの失踪の裏に、彼女の兄「綿谷ノボル」の存在があることを突き止めていく……。』

これはストーリーをまとめた「あらすじ」だろうか。断じてそうではない、あくまでもイントロであると私は思うのだが、いかがなものだろうか。技術論文で言えばあらすじはアブストラクトに相当するが、アブストラクトはあくまでも結論まで含めて論文全体を要約したものある必要がある。変なところで理系的な考え方が出てきてしまったけれども、そういえば技術論文のアブストラクトにもイントロ的なアブストラクトが時々あるようである。イントロ的なアブストラクトを書くのは文系的な考え方をする人なのだろうか。そしてこういうところに文系人間と理系人間の違いが出るのだろうか。

とまあ脱線したけれども、次回からは少しまじめにこの小説の中身を考えてみよう。

(続く)