シンガポール通信ー村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」:表の世界と裏の世界—無意識の世界と満州2

そして間宮中尉は、時期を見計らってソ連人将校を殺そうとするのであるが失敗する。そのソ連人将校は、自分に復讐しようとする間宮中尉をあざわらい、自分の拳銃を渡してこれで自分を射ってみろと言う。しかし動揺している間宮中尉は狙いを外してしまい、ソ連人将校を殺す事が出来ない。ところがソ連人将校は、彼を殺さず日本への帰国を認める。これは間宮中尉が、その後の人生をこのソ連人将校を殺せなかった弱い自分を責めるために費やすであろう事を予測しての行動であり、ある意味で彼をさらに辱めるための行動である。

ここまで書くとわかるように、間宮中尉の行動は主人公岡田トオルの行動によく似ている事に気付く。このことは、間宮中尉と岡田トオルは同一人物もしくは表と裏の関係にあると言っていいことを示している。そして、間宮中尉の憎むソ連軍将校は岡田トオルが憎む綿谷ノボルと同一人物もしくは深い関係にあることになる。現在の東京で岡田トオルがバットで綿谷ノボルを殴り殺す事は、ソ連の収容所で間宮中尉が果たせなかったソ連軍将校に対する復讐を完結する事を意味している。

その意味で、岡田トオルが住む現在の東京における物語と第二次世界大戦中の満州の物語は、深く関わっているもしくは表と裏の関係にあるのである。物語の生じる時間は異なっているとはいえ、この小説を読んでいる読者からすると、この二つの世界での出来事が交互に語られる訳なので、ある意味で表と裏の世界の出来事が同時進行しているように感じられるであろう。これは、他の村上春樹の他の長編小説「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」や「海辺のカフカ」匂いて用いている手法と同じ手法である。

村上春樹は現実の東京におけるストーリー展開と満州におけるストーリー展開の同時進行に興味をもったのか、満州におけるもう一つのストーリー展開を設定している。それは終戦直前の満州の首都新京の動物園でのストーリーであり、そこでの主役はその動物園の獣医である。といっても、この獣医は積極的な役割を担っている訳ではない。

飢えに苦しむ動物園の動物達が、ソ連軍の接近に伴い市内に逃げ出して混乱に拍車をかける事を恐れる日本軍は、若い中尉に率いられた部隊を動物園に派遣して動物達を射殺する。そしてその獣医はその動物達の虐殺の場面に立ち会う。また、同じ中尉率いる部隊が、反乱を起こした中国人達を動物園に連れて来て処刑するのに立ち会う。そして反乱の首謀者はバットで殴り殺されるというやり方で処刑されるのである。

この獣医は誠実な人間ではあるが、戦争という暴力の中で結局自分はなにもできず、これらの大きな暴力が行われているのを見守るだけである。そしてその獣医の右ほほには青い痣がある。岡田トオルの右ほほに出来る痣と同じ痣である。このことから、この獣医が岡田トオルと同一人物もしくは岡田トオルの分身である事がわかる。

つまり、間宮中尉も獣医も誠実な人間ではあるが、戦争という大きな悪もしくは暴力の中では自分の主体性を発揮する事が出来ず、動物達の射殺や中国人の処刑さらにはソ連人将校の暴虐を見守るだけで止める事は出来ない。つまり戦争という大きな悪の流れに流されてしまうのである。少なくとも間宮中尉は、そのような大きな悪に立ち向かう姿勢を示す。具体的には彼は悪を代表しているという存在であるソ連軍将校を殺そうとするのであるが、結局は失敗する。

現実の東京における主人公岡田トオルも、当初は誠実ではあるが自分から主体的に動く事の出来ない人間として描かれている。それが自分のおかれた状況や回りの人達にいわば支えられて、徐々に積極的な行動に出始める.そして最後には、現実世界で悪を代表する存在である綿谷ノボルの頭をバットで砕くという行為により悪を倒すのである。いわば岡田トオルは、自分の分身である間宮中尉や獣医が成し遂げ得なかった悪を倒すという行為を成し遂げるのである。

その意味において、「ねじまき鳥クロニクル」においても、村上春樹の他の長編小説「世界のおわりとハードボイルド・ワンダーランド」や「海辺のカフカ」と共通のストーリーを有する。

それは一つには、表の世界と裏の世界の存在とそこにおける物語に同時進行性もしくは深い関連性が存在することである。そして二つ目は、種々の出来事を経験する事を通して誠実ではあるが主体性に乏しかった主人公が積極性を獲得し、そして最後には悪を倒す存在に成長していくという、いわば主人公の成長ストーリーの存在である。