シンガポール通信ー村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」:表の世界と裏の世界—無意識の世界と満州

表の世界と裏の世界が存在するそして時には表の世界と裏の世界の物語が同時進行するというのが村上ワールドのもう一つの特徴であろう。そして前回述べたように、裏の世界は必ずしも一つではなくて複数の裏の世界が構築されていることもある。それが村上ワールドの世界を複雑にし、そして魅力的にしているのではないだろうか。

ねじまき鳥クロニクル」ではこれも前回述べたように、一つの裏の世界として主人公岡田ノボルが井戸の底を通して入って行く無意識の世界がある。そこでは岡田ノボルの無意識の世界はクミコや綿谷ノボルの無意識の世界と共有されている。その世界で岡田トオルはクミコに再会する。そこでのクミコはクミコとその分身とも言うべき「謎の女性」とが一体化したもしくはその二つが交互に現れるという形で存在している。

また、クミコはホテルの一室に監禁されているという状態になっており、これは綿谷ノボルがクミコを精神的に縛り付けている状態を表現している。主人公岡田トオルはクミコをそのような状態から救い出そうとするが、それは必然的に綿谷ノボルと戦う必要がある事を示している。彼は井戸の底を通して無意識の世界に入る際に持って来たバットで綿谷ノボルの頭を砕くことに成功する。
これは現実の世界では、綿谷ノボルが突然脳溢血で倒れ人事不詳になるという事態に対応する。無意識の世界で起こった事が現実の世界に反映されるというのも「海辺のカフカ」などと同様の設定である。「海辺のカフカ」では主人公が無意識のうちに父親を殺すが、実際にはそれは彼の分身とも言うべき老人「ナカタさん」によって実行されるのである。

そしてもう一つ「ねじまき鳥クロニクル」では、より広大な裏の世界が広がっている。それは第二次世界大戦中やその前後の満州である。満州を1つの裏の世界として登場させている事がこの小説の広がりを増し、成功に導いている最大の要素である事は間違いないだろう。

私は満州と聞くと何か特別な感情のようなものが湧いてくるのを感じる。別に満州に個人的に何かつながりがある訳ではない。しかしながら、第二次世界大戦中に一時日本軍が占領した広大なアジア地域の中で、満州はある種特別な地位を占めている。韓国、台湾、南樺太など日本が戦時中に領土としていた国は多いが、満州は日本がラストエンペラー溥儀を立てて傀儡政権を樹立し、かつ日本からの移住者による日本人中心の独立国である満州国を樹立したという意味で、やはり韓国や台湾とは異なる特殊な状況にあったと言えるだろう。

満州国の首都は新京であり現在の長春である。私はたまたま1月に招かれて長春のアニメーション関係の大学を訪問した。真冬であり夜は零下20度以下の世界であったが、春になると郊外は緑の平原が広がり大変美しいとの事である。1日だけの滞在だったので旧満州国時代の建物などを見学する時間はなかったが、ぜひもう一度訪問したいものだと思っている。

閑話休題。さて「ねじまき鳥クロニクル」における満州の物語は大きく分けて二つに分かれている。一つは間宮中尉の物語であり、もう一つは新京の動物園に勤務する獣医の物語である。

間宮中尉の物語はノモンハン事件直前の満州から終戦後のソ連での抑留生活にまで及ぶ長い物語である。ノモンハン事件直前ソ連領内での偵察活動を命じられた彼は、山本という諜報部員らしき人間や部下と共にソ連領内に侵入する。しかしながら、モンゴル兵・ソ連人将校からなる敵に見つかり、諜報部員である山本は全身の皮を剝がれて殺される。彼自身も深い井戸の底に投げ込まれるが、隠れていた彼の部下である本田伍長によって助け出される。

深い井戸の底に投げ込まれた間宮中尉が、助け出されるまでの間何を考えていたかが彼の独白によって語られるのであるが、それはまさしく主人公岡田トオルが妻クミコの失踪やその他彼の回りで多くの錯綜した出来事を整理して考えるため、無意識に井戸の底に降りて時間を過ごす行動に対応している。

間宮中尉はその後、第二次世界大戦を経て戦後ソ連での抑留生活を送る。そしてその抑留生活中に収容所で、山本を殺し間宮中尉を井戸に投げ込んだソ連人将校に再会する。そのソ連人将校は、捕虜などに対するあまりにも残忍な態度の故に収容所に送られているが、収容所でもその狡猾かつ残忍な手段により収容者全体のトップに立ち、収容者に対して独裁者のように君臨している。彼に対する復讐の念に燃える間宮中尉は、彼に近づくために彼に取り入り秘書のような役割を得る事に成功する。

(続く)