シンガポール通信ー村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」:副主人公?「岡田クミコ」

さてそれでは「ねじまき鳥クロニクル」の副主人公は誰だろうか。これはなかなか難しい問題である。一つの考え方は主人公「岡田トオル」の妻「岡田クミコ」が副主人公だとする案である。岡田クミコが副主人公であるかどうか、ストーリーを追いながら考えてみよう。

確かに岡田クミコはこの小説の中では重要な役目をしている。まず第一に岡田クミコは、この小説の中で悪を代表する存在である「綿谷ノボル」の妹である。 悪の代表である綿谷ノボルの妹が善を代表する主人公岡田トオルの妻であるというのは、この小説の初めからストーリー設定にある種の不安定な要因が潜んでいる事を暗示している。

案の定、岡田クミコはある日突然何の前触れもなく岡田トオルの前から失踪する。それは当初は男を作ってその男と一緒になるために夫を捨てたかのように見えるけれども、徐々にそうではなくて綿谷ノボルがクミコを夫である岡田トオルから引き離し強引に自分の元へ引き寄せたらしいという事がわかってくる。

悪を代表する存在である綿谷ノボルは、宗教団体の教祖のように人を引きつける力を持っており、それを活用し政治の舞台に登場して、将来はある意味で日本を支配しようともくろんでいる。悪を代表する存在である綿谷ノボルに関してはまた別に詳しく論じたいけれども、彼はその教祖的な力を自分の身近にいる女性との関係から得ている。いいかえると女性のエネルギーを吸い取る事で(これはあくまでメタフォリカルな意味であるが)教祖的な力を得ているのである。

かってはクミコの姉がその役割を担っていたが、姉はそのような状態に耐えられず自殺してしまう。クミコは自分もそのような立場になる事を恐れ、主人公岡田トオルとの結婚によりそのような状態から逃げ出すのであるが、結局兄の持つ強い力に引き寄せされて兄の元に引き戻らさせる事になる。

失踪した妻クミコを取り戻そうと岡田トオルが手を尽くしていく過程が、この小説の幹となっているストーリーである。しかしながら、失踪して以降はクミコのこの小説の中での存在は小さくなってしまう。もちろん岡田トオルの言動の中ではクミコには何度も触れられるのであるが、なぜか存在感が小さいのである。

これは、本来岡田クミコが特徴的なキャラクタを持っていないからではないだろうか。前回指摘したように、岡田トオルは本来平凡なキャラクタであるにもかかわらず、読者にさわやかな印象を与えまたそのストレートな行動力で読者を引きつけ、結果として読者が彼に感情移入するのに成功している。これに対して、どうもクミコの方は感情移入しにくいキャラなのではあるまいか。

この小説の冒頭、岡田トオルとクミコの会話で、仕事から帰って来たクミコがその間に岡田トオルが買って来たティッシュペーパーとトイレットペーパーや作った料理に不満を言う箇所がある。具体的に言うと、トオルが買って来た青いティシュペーペート柄の入ったトイレットペーパーを、それは彼女の大嫌いなもっというと我慢が出来ないものであり、そんな事は夫として知っているはずではないかと言って詰問する場面がある。そしてまた、彼が作った牛肉とピーマンを一緒にいためた料理は彼女が大嫌いな料理であって、これも夫として知っているはずではないかといって詰問する。

この場面はとってもリアリティのある場面であって、私は大好きである。青いティシュペーパーと柄の入ったトイレットペーパー、そしてまた牛肉とピーマンを一緒にいためた料理という極めて特定の組み合わせが我慢できないといういかにも女性的というよりそれを通り越した少し極端な言動(もちろんそれは生理前である彼女の心理状態を反映しているのかもしれないが)は、クミコのキャラクタにある種の特別なものを感じさせる。そしてクミコというキャラは、この小説で活躍しそうだなと予感させるではないか。

ところがである、その後クミコの言動は特に特徴的なものは出てこなくて、そうこうしているうちに失踪してしまい、小説の表舞台から消えてしまうのである。もちろん岡田トオルがクミコを取り戻そうとして行動するその背景に常にクミコの陰がある事は事実である。しかし人間としてのクミコの特徴のようなものは浮かび上がってこない。

(続く)