シンガポール通信ー村上春樹「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」:灰田と緑川

つくると灰田がホモセクシャルな関係にある事は、現実の出来事としては描写されていないが、それを暗示するような出来事が描かれている。それは、つくるが見た夢—いつものようにシロ・クロとセックスをする夢—である、最後に灰田がつくるの精液を飲み干すという異様な夢の形で描写される。しかも夢でありながら、目が覚めたつくるの下着は汚れていない。

ということは、もしかしたらそれが現実に起こった事ではないかと読者に思わせてしまう。つくるは夢を見ながらも同時に幽体離脱して、灰田とそのような行為をしたのかもしれない。このような現実と仮想が入り交じった出来事の描写こそが、村上春樹の得意とする所である。

そのような夢を見た翌朝、灰田の様子には特に変った所はなかった。しかしながら、その後すぐに灰田はつくるの前から姿を消してしまうのである。このことは、灰田の側でも同じような夢を見た、もしくは無意識のまま現実にそのような行為をしたという事を暗示していないだろうか。

灰田青年の側からすると、論理的に考え行動しようとしながら、つくるという青年に惹かれ週末は一緒に住むようになり、そしてホモセクシャルな関係になってしまった事に耐えられなくなって、つくるの前から姿を消したと解釈する事が出来る。

そうすると、灰田はつくるの中の陰の部分もしくは女性的な部分を表現していると考える事も出来る。いやもう一歩踏み込んで、灰田とシロが一体である、もしくは灰田がシロの生まれ変わりであると解釈する事も出来るのではないか。つくるに捨てられたと感じたシロは、つくるにレイプされたという嘘の告白を仲間の3人にする。しかしその結果として精神に変調を来たした彼女は結局死に至る。しかしその精神は灰田に宿り、つくると親しくなるということでその望みが叶えられる。そして最後につくると肉体的に結ばれるという行為により、最後の望みを叶えた彼女はつくるの前から消えてしまう。

とまあこのような解釈は深読みしすぎであろう。しかしながら村上春樹のこれまでの小説では、このような深読みをしたくなるような現実と非現実が渾然一体となった状況設定がされていた。しかし「色彩のない・・・」では、非現実の世界がつくるの夢の中以外には設定されていないため、このような深読みの楽しさを味わいにくいのではないだろうか。この点も私が(そして多くの読者が)今ひとつ満足できない所ではあるまいか。

それでは最後に、灰田が語る話の中に出てくる緑川という人物について少し触れておこう。彼はこの小説の中では表向きは脇役に過ぎないが、彼こそは典型的に村上ワールドを体現した人物だからである。

緑川は、灰田の父親が若い頃に放浪生活を送っている時に、大分の温泉で出会った人物である。彼はジャズピアニストであると名乗り、近くにピアノを弾ける場所がないかと灰田の父親にたずねる。山を越えた中学校にピアノがある事がわかり、緑川と灰田の父親はその中学校をたずね、緑川がそのピアノを弾く。調律も完全ではないピアノであるが、緑川は見事としか言えないジャズピアノ演奏をする。しかしそれっきり、緑川はピアノに興味を失ったように見えた。

そしてそれからしばらく経った夜、二人が飲んでいる時に緑川は灰田の父親に不思議な話をする。それは緑川がある特殊な能力を得るのとひきかえに、後一ヶ月の命しか残されていないという事である。その能力というのは、混じりけのない純粋な知覚の能力である。それを得ると、すべてのこれまでの知覚や経験は薄っぺらなものになってしまう。

これはいわば「悟り」を得る事である。そしてその能力と引き換えに命を差し出すわけであるから「明日に道を聞かば夕べに死すとも可なり」を地でいくような話しである。そして緑川は、その能力を誰かに引き渡してしまえば自分の命は長らえるのであるが、純粋な知覚を得た経験をした後では、だれかにその能力を譲り渡すつもりはないという。そしてその数日後、緑川は灰田の父親の前から突然姿を消してしまう。

私達の心の奥底にある闇の部分が存在すると共に、その裏側には輝かしい悟りの世界が存在する。これまで村上春樹の小説は、この心の闇の部分に焦点を当てて種々のストーリー・主人公・登場人物を使って描いて来た。ところがこの小説に至って始めて、心の闇の部分の反面としての心が持つ事の出来る純粋知覚(もしくは悟り)の話が出てくる。

悟りの世界はいわば宗教的体験の分野であり、文学が扱うことの困難な分野としてこれまではされてきた。「色彩を持たない・・・」の後半は私としては少々不満が残るのであるが、この前半に出てくる緑川そして灰田は大変興味深い登場人物である。はたして村上春樹は今後の彼の小説で「悟り」の世界を取り扱ってくれるのだろうか。