シンガポール通信ー先斗町

先日帰国した際に久しぶりに京都先斗町を散策した。

先斗町木屋町通と鴨川にはさまれた狭い通りで、多くの飲み屋、料理屋が軒を接するように建っている。先斗町の「ぽんと」という発音は日本では聞き慣れない発音であるが、一説によるとポルトガル語で先の方を意味するポントから来ているということである。

先斗町は、本来は舞妓さんや芸妓さんの置屋が軒を並べていた花街で、1990年代前半までは、先斗町を歩くと必ずと言っていいほど舞妓さんや芸妓さんとすれ違ったものである。

しかし、バブルが崩壊した1990年代半ば頃からのいわゆる「失われた10年」の間に多くの置屋が廃業し、舞子さん達に出会う事がめっきり少なくなった。そしてそれとほぼ時を同じくして、先斗町を構成している店の内容にも大きな変化があった。

それまでは、置屋の他にも格式の高い料亭が並んでいたものである。これらの料亭は、一見すると普通の家と区別がつきにくく、食事をする場所には見えない。それとわかるのは、軒先に掲げてある赤い提灯に灯がともっていることだけである。

もちろんメニューのたぐいは外にはいっさい出してない。その多くはいわゆる「一見さんお断りの店」であり、どのような店なのだろうと想像するしかなかったものである。時々出入りする客とおぼしき人たちの中には、いわゆる京都の旦那衆らしき人たちもみかけられた。

ところがバブル崩壊後は、この料亭も次々と店をたたみ、その後には通常の飲み屋、料理屋、バーなどが入居する事が多くなった。それに伴い、置屋や料亭の赤提灯に変わりそれらの店の時にけばけばしいネオンや看板が先斗町を占拠する事になった。


最近の先斗町。(Wikipedia Commonsの写真を使わせてもらいました)


そうするとどこの街にもある通常の飲屋街と変わらなくなってしまうのであるが、そこはさすがに京都、そこここに残っている昔ながらの料亭や、料亭ほど格は高くないが長年先斗町に店を出している料理屋などが格式を保っている事もあって、やはり先斗町だけが持っている独特の雰囲気を醸し出している。

私がかって顔なじみにしていたのは、四条通りから少し上ったところにあった「仁助」という飲み屋である。日本酒と近江牛の料理を専門にしていた店で、なぜかその店の主人の話が合い毎週のように通ったものである。この店のことは話が尽きないのでまた別の機会に述べたいと思うが、残念ながらこの店も5、6年前に店を閉じてしまった。


まだかっての面影の残っている先斗町かいわい。女性の後ろにある「近江牛」の提灯が下がっているのが「仁助」、実はこの提灯も私が寄付したもの。残念ならがこの光景はもうない。(Wikipedia Commonsの写真を使わせてもらいました)


最近は新しい店に通う事が多い。最近よく顔を出すのは三条通りから少し下がったところにある「侘屋古暦堂」という鶏肉料理を中心とした店である。店員はいずれもまだ20台の若い人たちで接客態度もきびきびしており、食事をしたり飲んでいても大変心地がいい。


「侘屋古暦堂」の店長。通い始めた頃はまだ入りたてであったが今では店長として店を仕切っている。他の若い人たちは恥ずかしがって隠れてしまった、これもいかにも京都らしい。


シンガポールから帰国する際には必ず行く事にしているし、店も狭いけれども上品な構えなのでお客さんの接待にも使えるところが気に入っている。ただ、ここも少し前までは時間帯によっては舞妓さんや芸妓さんにあえたのだが、最近はほとんどそのような機会がなくなったのが残念ではある。