シンガポール通信-倫理としての儒学・儒教

私たちの心の奥底にある本能としての欲望を犯罪に結びつけることを止めているものは、私たちの心の中にある倫理観であると前回述べた。

日本を含め東洋の代表的な倫理観といえば、孔子によって始められた儒学もしくは儒教であろう。倫理と宗教を厳密に切り分けるのは困難であり、孔子の教えを倫理学としてみた場合は儒学となり宗教としてみた場合は儒教となる。

それでは倫理と宗教とは何が異なるのだろうか。倫理も宗教もいずれもが人が行うべきことと行ってはならないことを説く。しかし倫理がそれを説くのは理想的な社会の実現をめざしたものであって、理想的な社会における人と人の関係のあり方を説いているのが倫理であると考えることができる。和辻哲郎倫理学を「人間学(じんかんがく)」、すなわち人と人の間の関係のあり方に関する学問と定義したのはこのことを意味している。

それに対して宗教は、個人個人の人に注目する。人とは何か、そして人はこの世に生きている間に何をなすべきかを説いたものが宗教であろう。そしてその根本には、神が人を作り出しこの世に生まれさせ、生きるようにしているという考え方がある。したがって宗教の説くところは、神がこの世に人を生まれさせた目的に沿って個々人はどう生きるかであって、人間学(じんかんがく)以前に神と個々人の関係が問われることになる。

もちろん社会は複数の人によって構成されるわけであるから、個々の人が神と向かい合った後には社会における他の人と向かい合う必要が生じる。したがって人が個人としてどう生きるは当然他の人にどう接するかの問題も含んでおり、これは宗教が倫理をも含むことを意味していることになる。

孔子の教えをまとめた「論語」を読んでみると、孔子の教えは基本的には倫理であることがわかる。そこには人を超えた神という存在は論じられておらずあくまでも社会の中において人はどう行動すべきかが説かれているとみることができる。したがって孔子の説いたのは基本的には倫理である。

しかしながら、人がどう行動すべきかをつきつめると、人とは何か人は個人として何をなすべきかという問題に近づくのであって、その時儒学は倫理であることをこえて宗教である儒学になるといってもいいだろう。事実中国においては、孔子儒教創始者として神のような扱いを受けており、孔子を神として祀った寺が随所に存在している。

私たち日本人は孔子の教えを儒教と呼ぶことが多いが、日本では儒教はあくまでも倫理として捉えられており、宗教として捉えられているわけではない。それと同時に倫理としての儒教は中国以外にも日本や韓国さらには東南アジアの国々に広く受け入れられてきている。これらの国々においては、意識はしていなくても儒教的な考え方が人々の行動の規範となっている。このことは、シンガポールに住んでシンガポール国立大学(NUS)で勤務している間にアジアの各国からの留学生に接して私が実感として感じたことである。

もちろん当然ではあるが中国・韓国からの留学生の方が、典型的な儒教的考え方・行動をとることが多い。高額の学費を払いかつ生活費も高いシンガポールで生活するためには家族はそれなりの覚悟でこれらの留学生を送り出しているものと思われる。

それらの留学生が、両親の誰かが病気になったのでそばにいてやる必要があると言う理由で、しばしば学業途中でNUSを退学して帰国するのに出会ったことがある。病人の面倒は家族の他の誰かが見てやれるのだから、せっかく得られた留学の機会を途中で放棄するのはなんとももったいないと思ったものであるが、両親の面倒をみるのは絶対的な義務であるというのが彼らの言い分であった。これなどは両親を敬うことを教えている儒教の考え方によるものだろう。

またこれは韓国からの留学生の例であるが、一緒にキャンパスを歩いていても常に少し後ろを歩いてくる。いろいろな話題を議論するのに便利だから並んで歩くよう促しても頑として聞かない。目上のものと歩く時は必ず少し遅れて歩くように習ったというのである。いわゆる「三歩下がって師の影を踏まず」という有名な格言を実行しているわけである。この格言自身は孔子の教えではないようだが、目上を敬うようにという儒教の教えに従った行為であることは確かである。