シンガポール通信-何が犯罪を犯すのを止めているのか?

宿泊しているホテルの女性従業員に性的暴行を働いた高畑裕太容疑者は、警察の取り調べに対して「欲望を抑えることができなかった」と述べているが、そのような欲望は男性であれば誰もが持っているものであろう。

そしてまた、相模原市の障害者施設における無差別殺人事件の犯人が施設に収容されている障害者に対して持った「この人たちは生きているより死んだ方が幸せではないかと思った」という感情も、痴呆症の高齢者や意識を失い医療機器によって生かされている状態の人に対して時に私たちが持つ感情であることを否定はできないであろう。

つまり一般の人々も高畑裕太容疑者や相模原市の障害者施設における無差別殺人事件の犯人と同様の感情を心の奥底に持っているのである。しかしながら大半の人たちにとって、そのような感情が実際の犯罪に結びつくことはない。だからこそ犯罪を犯した人間を、私たちは単純に「悪い人」と分類してしまいがちなのである。

それでは、心の奥底にある本能的な感情や欲望を、実際の犯罪に結びつけることを抑えているものはなんだろう。それはいわゆる倫理感であり、またその高次のものである宗教的思想であろう。倫理と宗教の境界を明確に区切ることは難しいが、いずれも「人が何を行ってはならないか」そしてまた「何を行うべきか」を私たちに教えてくれるものと考えていいであろう。

旧約聖書の中にある有名なモーゼの十戒の幾つかはまさにそれを示していると言える。「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」などがそれに相当するものである。もっともこれらはいずれも、社会生活を行う上でしてはならないもの、いいかえれば基本的な倫理であることを、私たちは直感的に知っているといえよう。

しかし同時に、それをわざわざモーゼの十戒としてキリスト教の基本的な教えとしているということは、社会生活を行う上での基本的な倫理は時に私たちの動物としての本能的な欲望と相反するものであることを意味しているのではなかろうか。

特に若い時は、倫理観が十分心の中に根付いていないことや、本能的な欲望が強くそれを抑えることが困難な場合もあることは認めなければならないであろう。道端にお金が落ちているのを見つけた時に、少額であり誰も見ていなければそれを自分のものにしてしまった経験は、多くの人が持っているのではあるまいか。

私自身も大学生の頃当時開催された博覧会で、展示物のごく一部ではあるがくすねてしまった経験がある。たまたま見つからなかったけれども、これは立派な犯罪である。なぜそのようなことをしたのかを説明するのは難しいが、人のたくさん集まる会場にいることによる高揚感が私の倫理観を弱め、何か特別なことをしてみたいという感情に結びついたのではなかろうか。

同時に人は年齢を重ねるとともに倫理観が心に根付くとともに、本能的な欲望も弱まるものである。有名な「七十にして心の欲する所に従いてその矩をこえず」という孔子の言葉も、倫理観が強くなったということと同時に、年をとることによって欲望が弱まりあまり変わったことをしたい気持ちがなくなってきたということも意味しているのではないだろうか。

最初の議論に戻るが、私たちが人を「いい人」と「悪い人」に区別しがちなことの問題点は、本能的な欲望がたまたま倫理観をこえて出来心で犯罪を犯してしまった人を「悪い人」とレッテル付けをしてしまうことである。そしてそのことは、そのような人が罪を刑務所等で贖い出所してきた後も悪い人として扱い、社会の中に受け入れようとしないことにつながる。

もちろん倫理観のかけらも持ち合わせない本当の意味での悪人がこの世の中にいることも否定はできないであろう。しかし心の弱さや出来心で犯罪を犯した人に一生「悪い人」というレッテルを張るというのは、今の社会システムの持つ一つの欠点ではあるまいか。