シンガポール通信-相模原の障害者施設における大量殺人事件に思う2

前回、相模原の障害者施設で起きた大量殺人事件に関して、私たちが障害者を「障害者=健常者—なんらかの機能・能力」という見方で見ているのではないかと書いた。これは別の言い方をすれば、私たちが障害者を一般の健常者に比較して劣った存在として見ているのではなかということである。そしてこれに関しては、一般の人のみならず、マスコミもそして政府もそのような見方をしているのではないだろうか。

そしてそのことを端的に示しているのが、障害者用の施設を設けてそこに障害者を収容するという考え方である。障害者が私たちと同じように感じ・考えており、単に私たちとのコミュニケーションが取りにくいだけなのだと考えると、障害者の人たちが社会の中で他の人たちと一緒に生活していけるように社会を構築すべきなのではないだろうか。

もちろんそのためには、障害者との円滑なコミュニケーションの手法を研究するなどのことが必要であり、かなりの予算も必要とするだろう。障害者と健常者が同居できる社会というのは高コストの社会であろう。しかし前回も書いたように、障害者というものが人間という種が存続するために突然変異により人間の多様性を保存するための自然の摂理に基づいて作られた存在と考えると、障害者と健常者が同居できる社会こそが、災害などの種々の環境変化に強靭な社会なのかもしれないではないか。

ところが現実に行われている政策は、障害者施設を用意しそこに重度の障害者を収容するというものである。これはまさに「障害者=健常者—なんらかの機能・能力」という考え方に基づいたものであり、重度の障害者は社会の邪魔になるから社会から隔離しておこうという政策ではなかろうか。そのために大半の障害者施設における障害者の取り扱いは、彼らにいかにしてハッピーな生活を提供するかということではなくて、最小限のコストでいかにして彼らを生かすかというものではないだろうか。

私自身は障害者施設を訪問したことはないが、両親が高齢者施設にお世話になっていたことがあり、高齢者施設は何度も訪問したことがある。施設の従業員の方々はたしかに私の両親も含めて高齢者の方に優しく接しておられた。しかしながらそれはやはり、高齢者が一般の健常者に比較して能力が劣っているからそのように取り扱う必要があるという考え方に基づいているように思われた。

つまり、高齢者も一種の障害者として遇されているのである。高齢者はたしかに体力に関しては健常者に比較して衰えているかもしれない。しかし彼らの長年の経験に基づく智慧は社会に還元できるものが多いのではないだろうか。高齢化社会の到来に伴い、高齢者をいかに遇するかという研究プロジェクトが数多く進められているが、その大半が身体的・知的に衰えた高齢者に残された人生をいかにして不便を感じずに生きていけるかという問題設定に基づいている。高齢者の持つ智慧を社会にいかにして還元するかという問題設定に基づくプロジェクトはほとんど見当たらないのではないか。

特に後期の高齢者の取り扱いになると、彼らの多くが生命維持装置が付けられ回復の見込みのないまま「生かされている」という感じを私の経験からしても持たざるを得ない。80年も90年も生きてきて社会に貢献してきた高齢者に対しては、もっと人間の尊厳を感じさせるような遇し方が必要なのではないかと痛切に思った次第である。

相模原の障害者施設の場合も重度の障害者の施設と聞いているから、後期の高齢者と同様に、収容されている障害者の多くは「生かされている」という状態なのではあるまいか。そしてうがった見方をすれば、その施設の障害者の多くを死に追いやった犯人はその施設に勤務していた3年間の間に同様の感覚を持ったのではないか。

勤務していた障害者施設において、人間としての尊厳を失わされ単に生かされている障害者の多くを見て、そのような扱いをしている国家に対する怒りを覚えたという見方もできる。それと共に、そのような取り扱いに対する具体的なより良い解が見いだせないという矛盾に苦しみ、最後にはそのような取り扱いをされている障害者の人たちをむしろ死に追いやった方が彼らにとって幸せなのではという考え方に至り、あのような蛮行に及んだと考えられないだろうか。

そのように考えると、彼が衆議院議長に犯行予告と取れるような手紙を2月に送っていたというのも、別の見方をすると障害者をそのように扱う国の政策への抗議であったという見方もできるわけである。

ともかくも今回の事件は、単に精神障害者が起こした偶発的な事件と片付けるべきではない。障害者とは何か、障害者を健常者が一緒に暮らすべく受け入れることのできる社会はどうあるべきか、などの問題を提起した重要な事件であると理解すべきではなかろうか。