シンガポール通信ー相模原の障害者施設における大量殺人事件に思う

世の中はリオ・デ・ジャネイロで開催されているオリンピック一色で沸き立っており、相模原の障害者施設で起こった大量殺人事件のことなどは、全く忘れてしまったかのようである。しかしこの事件は極めて重大な問題を、私たちに突きつけているのではないだろうか。

事件は、7月26日未明に相模原市にある障害者施設に男が忍び込み職員を縛り上げた上で、施設に収容されている身障者を次々とナイフで刺し、19人が死亡、27人が重軽傷を負うに至ったというものである。一種の無差別殺人事件であるが、犯人がこの施設で約3年間職員として働いていたことがあるということや、この施設に収容されている障害者に危害を加えるという犯罪予告をしていたにもかかわらずそれを防げなかったなど、過去の無差別殺人事件と比較してもいくつかの特異な点を含んでいる。

しかしながらどうも警察や識者による議論は、この犯人が施設職員として働いていた間に障害者に対するなんらかの悪意を持つようになったことが、事件につながったのではないかという方向になっているようである。しかも犯人がストレスによる精神病気味であり、薬物を摂取していた経歴があるなどのことが明らかになってきた。そのため、精神病気味の犯人が同施設に勤務している間に障害者とのなんらかのコミュニケーショントラブルがおこり、それを根に持って犯行に及んだという見解に落ちつきつつあるようである。

つまりは精神的に異常な人間が引き起こした事件であるということで片付けられつつあるわけである。世の中には種々の事件が起こるわけであるが、マスコミも含めて皆が知りたがるのはその原因である。原因不明ということだとどうも気持ちが落ち着かない。それが精神障害者が起こした事件となると、それは仕方がない面があると皆が納得してしまい、今度は犯行予告を行っていたにもかかわらずそれを防げなかった警察や施設側の責任問題が問われているということのようである。

しかしそれではあまりにも単純な理解なのではなかろうか。もう少しこの事件が私たちに突きつけている問題を掘り下げて考えてみる必要があるのではなかろうか。

まず考えなければならないのは、この事件の被害者を「障害者」「身障者」「知的障害者」などと私たちが呼んでいることである。この言葉自身に問題がある。障害者という呼び方は、その人たちが(とりあえずは他に良い言い方がないので「障害者」ということにするが)普通の人たちいわゆる「健常者」に対して、なんらかの能力・機能が欠落しているという意味を持っていることである。つまり「身障者=健常者—能力・機能の一部」という考え方である。これは正しいのだろうか。

人間の進化の過程をみるとわかるように、進化の過程では常にDNAの突然変異が生じている。これは常に人間の多様性を保持しておき、自然環境などの急激な変化があっても人間という種のある部分は生き残ることを可能にするという自然の摂理によるものである。そしてまさにこの突然変異のゆえに、人間という種は多くの動物が絶滅した厳しい氷河時代を生き抜き全世界に生息域を広げたのである。そしてその突然変異は現在もある確率で生じている。もしかしたら私たちが障害者と呼んでいる人たちは、突然変異によって生まれてきた人たちかもしれない。とすればそれは、人間という種が存続していくために自然が行っている壮大な実験の一部なのである。たまたま自然環境に大規模な変化がないため、それらの人たちの活躍する機会がないだけで、大きな自然災害が起こって自然環境が激変すれば、それらの人たちこそが人間という種を引き継いでいくことになるかもしれないのである。

そこまでいかないにせよ、障害者と呼ばれる人たちが心の中では私たちと同じ意識を持っており、ただ声などを使って私たちと同じレベルでコミュニケーションができないだけなのではないだろうか。そしてこのことは、身障者を持つ家族などが彼らとのコミュニケーションの経験を通して語っていることからもほぼ確実であると思われる。

そうであるならば、身障者とのより良いコミュニケーションの方法、そして彼らが何を感じ考えているのかを知る方法は、もっと研究されてしかるべきなのではないだろうか。高齢化社会の到来に伴い、高齢者を社会としてどのように処遇すべきか特に高齢者がハッピーでかつ社会貢献が可能な社会のあり方に関しては、種々の議論が行われており研究も盛んに行われている。しかしながら身障者に関して同様の議論や研究が行われているとは言い難い。

これは国家レベルで、先に述べたように「身障者=健常者—能力・機能の一部」という考え方が広まっているということの証ではないだろうか。

(続く)