シンガポール通信-アリス・ロバーツ「人類20万年 遥かなる旅路」:6

アリス・ロバーツのこの著書に関して何度も書いてきたが、それはやはりこの本が読者を引き込むだけの魅力を持っているからだと思う。そしてその魅力がどこから来るかというと、最初に書いたように、この著書が現生人類がアフリカを出て地球全体に拡散していく道筋を実際に各地の遺跡を訪れ石器などの遺物や現生人類の化石などを見るというドキュメンタリー風の本になっているからだと思う。現生人類の世界への拡散に関する本は現在ではいくつも出ているが、やはりこの著書が読者を引き込む魅力という点では群を抜いているのではあるまいか。

さて最後に現生人類のヨーロッパへの移住に関して書いておこう。すでに書いたように、現生人類の100人〜200人の少人数のグループが8万2000年〜7万8000年の間のいずれかの時点でアフリカを出て、その後全世界に拡散して現在世界中に住んでいる人の直接の祖先となった。

その移動の速度は結構早く6万年前にはオーストラリアに達していた。また3万年前前にはシベリアに達しており、2万年前には北アメリカに渡り、そして1万3000年前には南アメリカの南端付近にまで達している。

ところがヨーロッパへの移住はオーストラリアへの移住から2万年も遅れて4万年前頃らしいのである。距離的にはアフリカを出てアラビア半島に渡った現生人類はすぐにでもヨーロッパへと移住できたように思えるが、当時の気候からアラビア半島北部は乾燥化した砂漠で人が住める場所ではなかったらしい。

したがって現生人類はアフリカからアラビア半島の南端に船で渡り、そこから海岸伝いに西に進みインド、東南アジア、そしてオーストラリアに達するという旅を行ったらしい。ヨーロッパに向かう旅はいったんインドに到達した現生人類の一派が今度は内陸部をつたって西へ移動するということによって達成したのである。

その途中の過程がレバノンのクサル・アキル遺跡として残されている。クサル・アキル遺跡の年代は5万年前〜4万3000年前といわれている。当時は地球が少し温暖化し、ユーフラテス川沿いに草原や森林が存在したため、現生人類はそれに沿って西進し、地中海沿岸に達したのであろう。

いったん地中海沿岸に達すれば、食料などが得やすい海岸沿いを進むことによって、現在のボスボラス海峡に達し、対岸(現在のイスタンブール)に渡りヨーロッパにたどり着くことになる。一旦ヨーロッパにたどり着いた現生人類はその後急速にヨーロッパ全体に拡散していくことになる。

その初期の遺跡がルーマニアのペシュテラ・ク・オース洞窟に残っている。ここで発見された二つの人骨は4万年前および3万5000年前のものであることが科学的分析からわかっている。この4万年前の人骨は現在までにヨーロッパで発見されている最古の現生人類の化石である。すなわち4万年前には現生人類はヨーロッパの中心部にたどり着いており、それ以降は急速にヨーロッパ全体に拡散していった。

そしてそれを示す遺跡はヨーロッパの多くの場所で見つかっている。その代表的なものがドイツのフォーゲルフェルト遺跡である。そこでは約3万5000年前とされるマンモスの牙で作られた笛を始め、同じくマンモスの牙で作られたマンモス像、ライオン像(頭部はライオンで胴体は人間のように見えるので「ライオンマン」と呼ばれている)などが発見されている。同じ時代の現生人類の遺跡はヨーロッパ各地で発見されており、当時の現生人類がすでに文化と呼ばれるものを持っていたことを示している。当時の文化は現在ではオーリニャック文化と呼ばれている。

つまり現生人類はヨーロッパに移住したのは約4万年前とアラビア半島からの距離を考えると比較的遅かったのであるが、急速に文化を発達させ現在のヨーロッパの人類の祖先になったのである。たの地域に比較した場合のこの急速な文化の発達が、その後の現在まで続く西洋優位の考え方になるのではあるまいか。

しかしながら、ヨーロッパで進んだ文化を持った現生人類の遺跡が数多く発見されていることは、ヨーロッパにおいて遺跡の発掘が盛んに行われてきたことと関係が深いことを忘れてはならない。他の地域においても今後発掘が進めば、それぞれの地域で現生人類は古くから文化を発達させてきたことを示す新しい発見があるのではないだろうか。