シンガポール通信-アリス・ロバーツ「人類20万年 遥かなる旅路」:5

さてそれでは、現生人類が現在のベーリング海峡を越えてアメリカ大陸に移住したのはいつ頃だろうか。

シベリア北部のヤナ川流域にはヤナ遺跡があり、そこでは約3万年前に現生人類が住んでいた証拠がある。一方で北アメリカの各地ではクローヴィス文化と呼ばれる独自の石器が大量に発見されており、その時期は石器の科学的分析により1万3000何前〜8500年前であることがわかっている。ということは、1万3000年前には現生人類は広く北アメリカに広がって住んでいたことを示している。またそれ以前の遺跡としては、アラスカのスワンポイント遺跡で1万4000年前とみられる石器が発見されている。ということは現生人類のアメリカ大陸への移動は3万年前〜1万4000年前であるということになる。

そこで問題になるのは当時の気候であるが、2万4000年前〜1万3000年前までは地球はOIS2と呼ばれる氷期にあった。しかもそのOIS2の期間中で1万9000年前〜18000年前の間はLGM (最終氷期極相期)と呼ばれる極めて厳しい氷期であり、北アメリカ全体は巨大な氷河に覆われていたと考えられている。

ということは現生人類のアメリカ大陸への移動に関して問題となるのは、LGMの前にアメリカ大陸に移住していたのか、LGMが終わってから移住したのかということである。現生人類の化石や石器などの具体的な証拠に関しては、LGM以前のものは発見されていない。したがってこれまでは、現生人類のアメリカ大陸への移住はLGMが終わってしばらく時間が経過し、アラスカや北アメリカの大きな部分を覆っていた氷河が後退してからであると考えられてきた。それは上に述べたアラスカのスワンポイント遺跡の、1万4000年前の石器という時期とも一致する。

ところが一方で遺伝子分析技術が進むことによりその分析結果からすると、現生人類が北アメリカ移住へ移住したのは1万8000年前〜1万5000年前であるということになる。1万8000年前はLGMが終わる時期ではあるが、まだアラスカや北米は巨大な氷河に覆われていた。そのためこのような早い時期に現生人類が北アメリカに移住したとする説はこれまであまり信じられてこなかった。

1万8000年前頃は、LGMの影響による海水面の低下によりシベリヤとアラスカはベーリンジアという大陸によって陸続きになっていた。もちろんこのベーリンジアもアラスカも、大半は巨大な氷や氷河によって覆われていた。ところが、最近の発見によってこのような時でも、アラスカの海岸沿いの地域は氷が溶け、樹木が茂っていたということがわかっている。したがって現生人類は、このような海岸の樹木が茂って居住可能な地域を飛び石伝いに伝いながら、ベーリンジアから北アメリカに移住して行ったのだと考えられるようになった。

北米に現生人類が移住した時期に関するもっと直接的な証拠は、やはり現生人類の化石が発見されることであろう。そのような化石の最古のものとしては、ロサンゼルス沖合のサンタ・ローザ等から出土した現生人類の化石がある。それは約1万3000年前のものである。したがって1万3000年前に北アメリカに現生人類が住んでいたことはこれで証明される。今後の問題は、それでは現生人類がシベリアからベーリンジアを経て北アメリカへ移住した時期はどこまで遡ることができるだろうということである。

それでは北アメリカに移住した現生人類はいつ南アメリカに移住したのだろうか。南アメリカの現生人類の化石として最も有名なのはブラジル、リオ・デ・ジャネイロブラジル国立博物館に保存されている「ルシア」と名付けられた現生人類の頭骨である。それは科学的測定により1万3000年前のものであることがわかっている。

さらにチリのモンテ・ヴェルデ遺跡では1万4000年前に現生人類が住んでいた住居跡が残っている。モンテ・ヴェルデ遺跡の場所はある意味ですでに南アメリカの南端に近い。アラスカのスワンポイント遺跡の1万4000年前の石器が現生人類が北アメリカに移住した時期を示す証拠だとすると、上記の「ルシア」やモンテ・ヴェルデ遺跡の年代と矛盾する。

このことは、現生人類が北アメリカ移住へ移住したのは1万8000年前〜1万5000年前という遺伝子分析結果によって得られたデータの方と合致している。いやそれにしても、1万8000年前にアラスカに移住したとしても、なんと4000年という極めて短時間で現生人類はアラスカから北アメリカを経て南アメリカのほぼ南端に達していたことになる。1万5000年だと1000年でアラスカから南アメリカの南端に達するという信じがたいことになる。

これはなんでも移動の速度が早すぎるのではないだろうか。とすると、シベリアからベーリンジアを経てアラスカに現生人類が移住した時期というのを、LGMの始まる以前つまり1万9000年もしくはそれ以前と考える方が合理的かもしれない。しかしそのためにはそれを証明する化石や石器が北アメリカで発見される必要がある。

それは今後の研究に待つことになるだろう。いいかえれば、現生人類がアフリカを出て世界に拡散して行った旅路をめぐる研究は現在進行形であり、今後も新しい発見があることを示しているのである。