シンガポール通信-アリス・ロバーツ「人類20万年 遥かなる旅路」:4

さて、約8万2000年前〜7万8000年前の間にアフリカを出た現生人類は、その後どのようにして世界に拡散して行ったのだろうか。アジアの方へ移動して行った一派の足跡を追ってみよう。

現生人類の祖先がアフリカを出たのは、一時的な地球の寒冷化と乾燥化を引き起こしたハインリッヒイベント(9万年前〜8万5000年前)が終わり、地球が再び少し温暖な気候を取り戻した頃である。とはいいながら、OIS5(13万年前〜7万4000年前)と呼ばれる間氷期は終わりに近づきOIS4(7万4000年前〜5万9000年前)と呼ばれる氷期が近づいてきつつあり、海面は現在よりずっと低かったと考えられる。

そのような時代でも海岸近くは比較的温暖な気候であったことや、現生人類が植物や動物に加え貝や魚などの海洋資源を食料に利用していたことから、現生人類の移動は海岸沿いに行われたと考えられている。ということは当時の現生人類の遺跡特に現生人類の化石は現在では海の底にあって発見されることが少ないことを意味している。

そのためアラビア半島から当時は干上がっていたと考えられるペルシャ湾を経てインドさらには東南アジアに至る海岸沿いで現生人類の遺跡はほとんど発見されていない。次に現生人類の遺跡があるのはインドのジュワラプラム遺跡である。ここでは、7万8000年前から7万4000年前までの現生人類のものと思われる石器が見つかっている。

これに関連して重要な事件として、4000年前にスマトラ島のトバ火山が爆発した。これは過去200万年の間に生じた最大の火山爆発であって、大量の火山灰を吹き上げた。ジュワラプラム遺跡でもこのトバ火山のものである火山灰の層が存在する。興味深いのはジュワラプラム遺跡では、この火山灰の下と上の層からよく似た石器が発見されていることである。

このことはトバ火山が爆発した7万4000年以前に現生人類がここに到達していたことを示していると同時に、世界の気候に大きな影響を与えたと考えられるこのトバ火山の噴火を現生人類が生き延びたことを示している。世界の気候に大きな変化を与えたと考えられる火山の大噴火という事件を現生人類が生き延びたということは、現生人類が環境の変化に対する優れた適応力を持っていたことを示している。

さてその後現生人類の旅のルートは大きく二つに分かれる。一つは東南アジアを経て北上し中国・韓国・日本に至るルートである。もう一つは東南アジアからインドネシア等を経てオーストラリアに至るルートである。

現生人類が東南アジアからオーストラリアに渡ったのは6万年前から5万年前の間であると考えられている。当時の海水面は現在より40メートルほど低かったため、東南アジアの島々は一つの大きな大陸であるスンダ大陸を形成していた。またオーストラリアはニューギニアなどとつながったサフル大陸を形成していた。スンダ大陸からサフル大陸へは、現生人類は船を使って島伝いに渡ったと考えられる。島伝いといえど最大で70kmほどの海を渡る必要がある。内海で穏やかだっただろうとはいえ、70kmという距離を船で渡るという決意を当時の現生人類にさせたのは何だったのであろう。

7万4000年前のトバ火山の大噴火の後、地球は7万4000年前〜59000年前の間続くOIS4と呼ばれる間氷期に入る。環境の変化に対する適応力を持っていた現生人類にとっても、過酷な環境だったのであろう。そのため70kmの海を渡る必要があっても、全く新しい土地に現生人類に適した環境が見いだせることに賭けたのではないだろうか。

この大きなリスクを賭けてまで新しい可能性にかけることができるというのも現生人類の大きな特徴であり、それがネアンデルタール人などのヒト族に属する生き物の中で、唯一現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)が生き残れた理由なのかもしれない。

さてそれではスンダ大陸からサフル大陸へ現生人類が移ったのはいつごろだったのだろうか。オーストラリア北部のマラクナンジャ遺跡・ナウワラビラ遺跡では6万年前〜5万3000年前に現生人類が使ったとみられる石器が発見されている。これが確かであれば、アフリカを出てから2万年程度で現生人類はオーストラリアに到達していることになる。

難点は、現生人類の化石がこれらの遺跡では発見されていないことである。現生人類の化石はオーストラリア南部のマンゴ湖遺跡から発見されている。マンゴマン・マンゴレディーと呼ばれるこれらの化石は約4万年前のものとされている。従って4万年前にはオーストラリアに現生人類がいたことは確かであるが、それを6万年前〜5万3000年前にまでさかのぼることができるかどうかは今後の研究に待つ必要があるようである。