シンガポール通信-アリス・ロバーツ「人類20万年 遥かなる旅路」

さて助成金の申請書提出が済んで一段落したところなので(といっても7月に入ると次の大きな助成金の申請書の作成を行う必要があるのだけれども)、しばらく中断していた読書を再開することにした。

まず最初にとりあげるのは、アリス・ロバーツ「人類20万年 遥かなる旅路」(文芸春秋)である。アリス・ロバーツは1973年英国生まれの解剖学を専門とする女性医師。2012年より英国バーミンガム大学の教授を務めている。

この本は、いわゆる現在の人類の起源と、人類が生まれたアフリカを出て世界に拡散した歴史に関するものである。これまでこの種の本はすでにいくつか発行されているが、この本がこれまでの本と違うのは、人類の起源とその後の世界へ拡散する旅に関する記述を、実際にそれに関連する重大な発見が行われた場所を訪れた記録に基づいて記述したものである点である。

人類がアフリカを出て世界に拡散した歴史に関しては、スティーブン・オッペンハイマー「人類の足跡10万年全史」、ニコラス・ウェイド「5万年前:このとき人類の壮大な旅が始まった」が代表的なものである。

現生人類いわゆる狭義のホモ・サピエンス(もっと正確にはホモ・サピエンス・サピエンス)は、その祖先であるヒト属がチンパンジーと約200万年前〜1000万年前に別れたとされている。さらに現生人類と最も近い存在であるネアンデルタール人の祖先とは約50万年前に分岐し、そして約20万年前までにほぼ現在の人類に近い形に進化したとされている。本書の「人類20万年 遥かなる旅路」というタイトルにおける20万年はそのような意味なのであろう。

最近のDNA分析技術の発展により、ヒトの祖先をたどることが飛躍的に容易になった。特にミトコンドリアの中にある母型のDNAは遺伝子組み換えの影響を受けないため、母方の祖先から受け継がれている。したがってそれを調べていくことにより、ヒトの母方の祖先を遡っていくことが可能になった。これをたどっていくと約20万年前のアフリカの一つのDNAが現在の地球上のすべてのヒトの共通祖先であるという結果になる。

当然そのDNAを持っていたのは女性なので、彼女が現在の地球上のすべてのヒトの祖先であるというセンセーショナルな言い方がされることがあるし、また彼女を「ミトコンドリア・イブ」と呼ぶということも行われている。もっとも共通の祖先ということが彼女から現在地球上に生きている全てのヒトが生まれたということを意味するのではないので注意が必要であるが。

さて20万年前に現在のヒトに進化した後、現生人類はアフリカに住んでいたが、約7万年前にアフリカを出て世界中に散らばっていった。この現生人類がアフリカを出た時期については、ニコラス・ウェイド「5万年前:このとき人類の壮大な旅が始まった」では、それを5万年前としている。しかしながらその後オーストラリアで約6万年前の現生人類によると考えられる石器が見つかったことから、現生人類は6万年前にはオーストラリアに到達していたことになる。したがって5万年前にアフリカを出たという説は修正が必要であり、本著では現生人類の出アフリカは約7万年前であるかもしくは約7万年前と約5万年前の2回行われたとの説を採用している。

アフリカを出た現生人類のグループは、その後拡大しながら一派は東へ向かい東南アジアを経てオーストラリアへ至りまた北上して中国・日本に至る。別の一派は西へ向かいヨーロッパに到達して当時ヨーロッパで繁栄していたネアンデルタール人を駆逐して現在のヨーロッパ人の祖先となった。さらに別の一派はモンゴルを経て北上しシベリアに至り、ベーリング海峡を越えて北アメリカに至り、今度は南下して南アメリカの南端にまで至る壮大な旅を行った。

約7万年前にアフリカを出発した小グループ(たかだか100人〜200人のグループであるといわれている)が拡大しながらこのような壮大な旅を行い、地球上に拡散していったという事実そのものが感動的ではないだろうか。私はスティーブン・オッペンハイマー「人類の足跡10万年全史」、ニコラス・ウェイド「5万年前:このとき人類の壮大な旅が始まった」のいずれもすでに目を通しているので、この人類の壮大な旅の話は知っていた。

とはいいながら、これらの二つの著作が近年の考古学的な知見を整理して記述したものであるのに対して、そのような考古学的知見を事実として基礎におきながら、考古学的発見などが行われた場所を実際に訪れ、考古学者などとの議論を経て追体験しようとするアリス・ロバーツのこの著作は別の魅力を持っている。

私が本屋で本著の表紙を見かけるとすぐに手にとって購入し読み始めたのは、そのような魅力がタイトルからも伝わってくるからではなかろうか。