シンガポール通信-男子バトミントン桃田選手の勘違い:2

前回はロジェ・カイヨワによる遊びの分類を示した。そしてスポーツは、「体力もしくは知力によって勝ち負けを決める遊び」であり、これはカイヨワの分類学では「アゴーン」と呼ばれることを述べた。これに対し、ギャンブルは「運で勝ち負けを決める遊び」であり、これはカイヨワの分類学では「アレア」と呼ばれることを述べた。これだけならば、スポーツとギャンブルは全く性質の異なる遊びである。

それではなぜバトミントンの世界で世界ランキング2位まで上り詰めた桃田選手が、ギャンブルに手を染めたのだろう。彼のコメントを再び引用すると、「スポーツマンとして勝負の世界で生きている以上、ギャンブルというものに興味があり・・」と述べている。すなわち彼は、スポーツもギャンブルも勝ち負けを競う遊びであることは自覚しているわけである。それと同時にこのコメントを読むと、スポーツとギャンンブルは異なる種類の遊びとはいえ、そこに共通するものが存在しそれが彼の興味を誘ったのだと理解できる。

たしかにアゴーンとアレアは全く異なる種類に属するが、個々の遊びが完全にアゴーンに属したり完全にアレアに属するということはなくて、いずれの要素も大なり小なり備えていることは確かである。例えばプロ野球であれば、打球がほんの数センチファウルラインの内側に入ったかどうかが、ヒットとファウルをさらにはホームランとファウルを分け、そしてそれが重要な試合の結果を決めることが往々にしてある。しかもその時の風の向きなどがそれに影響を及ぼすことは多い。

ほんの数センチといえば、選手の能力というよりその時の状況、言い換えると運が左右するといってもいいであろう。バトミントンでも、空調の風の向きが勝負に大きな影響を与えると言われている。つまり勝負の世界も、単なる体力・知力勝負ではなくて運も少し絡んでいるのである。

一方でギャンブルも、純粋に運だけで勝ち負けが決まるというわけではない。パチンコでも出やすい台を選ぶことは重要だし、ポーカーなどではいわゆる「駆け引き」が重要になる。これらにおいては知力が関わってくる。もちろん麻雀のように運と知力の双方が関わるような遊びもある。麻雀がチェス・将棋・囲碁などの通常のボードゲームに比較して何やら胡散臭いゲームであると思われているのは、この運が大きな要素を占めるゲームだからである。

したがって桃田選手のコメントを好意的に解釈するならば、「スポーツにおいても運の要素が絡んできて、能力が優れていても負けることもある。そのような場合にも腐ってしまわないように強い心を持っている必要がある。そのために、運が大きな役割をして負けてしまっても、平静心を保っていられるように訓練するためにギャンブルをやった」とでもなるだろうか。彼のコメントに少しだけではあるが同感できるところがあるのは、そのためではないだろうか。

しかしこのような考え方は間違っている。スポーツ選手としてトップに立つためには人並み外れた身体能力を持っていると同時に、人並み外れた訓練によって、自分の身体能力を高めることを常に目指すことが必要である。それを継続して行うためには強い精神力を持っている必要がある。それでもなおかつ自分より上の選手に勝つことは難しい。それでも常に上を目指して自分を継続して鍛えるのがスポーツ選手である。これは負けても腐らずにさらにチャレンジを繰り返すという強靭な心のつよさが必要である。

つまりそのような心の強さはすでに桃田選手は持っていると考えられる。別にギャンブルに手を染めなくても、バトミントンでトップを目指すことを継続すればよかったのである。問題は、スポーツにおいて必要な心の強さとギャンブルにおいて必要な心の強さが異なるものであることだろう。ギャンブルはビギナーでも勝つことができ、勝った場合の快感を体験出来るというスポーツの世界にはない特徴を持っている。これこそがギャンブルが人々を惹きつける大きな魅力を構成している。

それと同時にギャンブルにおいてよく言われるのは、「引き際の難しさ」である。ビジナーズラックはいつまでも続かない、必ず負け始める。しかし大半の人はビギナーズラックで勝った時の快感に引っ張られて、「次こそは勝てる」と考えズルズルと大負けに引っ張り込まれるのである。そのような時に自分の感情を制し、すっとやめることができるのがギャンブルにおける心の強さである。

残念ながら桃田選手はスポーツ選手としての心の強さを持っていたかもしれないが、ギャンブラーとしての心の強さは持っていなかった。そのために彼のコメントにもあるように「抜けられない自分がいた」のである。桃田選手を責めるネット上のコメントは多いが、ギャンブルに手を染めてなかなか抜けられない人はごまんといるだろう。たまたま桃田選手がバトミントン世界ランキング2位という立場にいたので彼の言動が責められているのであるが、彼も21歳の普通の若者であったということではないだろうか。むしろ私たちもこの機会に自分自身の言動を振り返ってみるべきかもしれない。