シンガポール通信-儒教と老荘思想が中国の科学技術の発展を停滞させた?:2

儒教老荘思想が中国の科学技術発展の妨げとなったのではないかということを前回述べた。孔子儒教の基本的な思想は、家や組織や国家の存続と発展のために個々人はいかに考え行動すべきかを説いたものと考えることができる。これはある意味で個々人に向かって、「個」を消し去り家や組織や国家のための一つの歯車となって行動すべきであることを説いていることになる。

前回も述べたように、ほぼ同時代のギリシャプラトンも彼の著書「国家」の中で、理想的な国家とはどのようなものか、そしてそれの実現のために個々人はどのように考え・行動すべきかを説いている。しかし同時にプラトンは人間が自分の理性を用いて考え行動すべきことを説いている。すなわち理想的な国家の実現のために個々人が行動すべきであるという考えの背後には、個々人が自分の理性を用いて考えそして行動すべきであるというより基本的な理念があるのである。残念ながら孔子は「個」の重要性、そして個々人が自分の理性を用いて自ら考え行動することの重要性には触れていない。

同様に老荘思想の基本的な考え方としては、個々人が自らの考え・欲望に従って行動するのではなく自然の大きな摂理(それは老荘思想では「道」と呼ばれている)を見出しそれに従って生きることが重要であることを説いている。ここでもまた個々人が自分の理性を用いて考えるというプラトンが説いた基本的な理念は述べられていない。

すなわち中国を中心とした東洋においては、「個」の重要性もしくは「自我」の重要性を説いた哲学や宗教は、孔子の時代から現在に至るまで生まれていないといっていいであろう。この事実が西洋と中国をはじめとする東洋における科学技術の発展において持つ重要性は、いかに強調してもしすぎることはないであろう。

西洋においてはプラトンの説いた理性第一主義は、その後「個」や「自我」そして個々人の持つ「自意識」こそが人間の基本にある重要なものであるという考え方に発展した。その延長上に有名なデカルトの「我思う、ゆえに我あり」が存在するのである。ここで「思う」は「考える」の意味であって、東洋的な「感じる」という意味では絶対ないことに注意しなければならない。すなわち真実は自分の中にあり、自分の理性を用いて考えそれを見出すことこそが基本であるというのが西洋的な考え方なのである。

これに対して東洋では、真実は自分の外にあるもしくは哲学・宗教として与えられるものであって、それに従って行動すべきものであるという基本的な考え方があるのではないだろうか。自分の頭で論理的に考えを組み立てていくことをある意味で「小賢しい」として退ける考え方が、東洋にはあるのではないだろうか。

仏教においては釈迦滅後に多くの教義・哲学が作られたが、結局は論理を一つ一つ積み重ねていくという西洋流の理性主義にはならず、その多くが神秘主義もしくは不可知論へと変わっていったのではないだろうか。仏教の中における一つの流派である禅宗においても、頭で考えるという方法論は間違っているとして徹底的に排除される。座禅という瞑想状態に入り考えるということをせず雑念を排除することによって悟りを得ることができるという禅の基本的な方法論は、禅宗に限らず仏教の他の宗派にも共通する考え方であって、さらにはもっと広く儒教老荘思想にも通じる考え方である。

このような考え方のもとでは、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」とする自分の理性を中心におく考え方が生まれるのは望むべくもない。科学技術の発展において重要なのは、法則や実験事実を一つ一つ積み上げて世界を動かしている基本的な規則を見出そうとする考え方であって、その底には自分の理性を用いて考えを積み重ねていくという「理性主義」がある。理性主義を否定する中国および東洋において近代科学革命が生じなかったのはここにこそ根本的な原因があるのではないだろうか。
もっともこのように書くと、西洋においてはプラトン以降ずっと理性主義が中心にあってその積み重ねのもとにルネッサンスが生じ、また近代科学革命が生じ、そして産業革命が生じたかのようにとられがちであるが、そのようなことはない。

紀元前数百年におけるギリシャ哲学にもとづく理性主義の誕生ののちに、西洋においてはキリスト教が生まれた。ローマ帝国キリスト教を国教として定めてのちほぼ千年にわたる中世の間西洋はキリスト教の影響のもとに置かれ、そこではキリスト教の教義こそが人々の考え方・行動様式を規定していたのである。その千年にわたる中世の間理性主義は全く姿を消してしまっていたと言っていいであろう。

そうすると疑問はむしろ、紀元前のギリシャで生まれた理性主義が長い中世のキリスト教による支配の間も死に絶えることなく生き延びて、ルネッサンスにおいて蘇り近代科学革命として結実したのはなぜかということになるかもしれない。この点についてはまた別に考える必要があるだろう。