シンガポール通信-儒教と老荘思想が中国の科学技術の発展を停滞させた?

中国の科学技術が「中国の四大発明(火薬、羅針盤、紙、印刷術)」と言われるその後の世界の歴史を変えた発明を西洋に先んじて行う力を持っていながら、明の中期から清の時代にかけて停滞に陥り、西洋に追い抜かれ現在では西洋にはるかに先んじられていることを述べた。また考えられる理由を幾つか頭に浮かぶままにあげた。次にそのそれぞれに関して考えてみよう。

1.中国の哲学思想(儒教老荘思想など)が科学技術の発展に不可欠な論理的思考を深く進めることを妨げた

この考え方は、中国の代表的な哲学者であり儒教創始者である孔子老荘思想(もしくは道教)の創始者である老子荘子の思想が中国の科学思想の発展をある段階で止めてしまい、西洋におけるような近代科学革命・産業革命を生むに至らなかったとするものである。

儒教創始者孔子の生存年は紀元前552年〜紀元前479年、道教の始祖である老子の存命時期は不明であるが紀元前6世紀ごろと言われている。また同じく道教創始者の一人である荘子の生存年は紀元前369年〜紀元前286年といわれている。

2000数百年もしくは2500年近く前の中国の哲学者の思想が、その後の中国の人々の思考様式・行動様式を決定したというのはある意味で奇妙に聞こえる。しかし確かに儒教的な考え方、老荘思想はその後の長い歴史において、中国人にとどまらず韓国人や日本人の精神性にも大きな影響を与えているのは事実ではあるまいか。

例えば親を敬い孝行すべきであるとする考え方、高齢者や先輩を敬いその言葉に従うべきであるとする考え方などは私たち日本人の基本的な道徳として現在も残っている。いやむしろ文化大革命によって一時期儒教孔子に対する崇拝が否定された中国よりも、むしろ韓国や日本において儒教的考え方が残っているのではないだろうか。

孔子の基本的な考え方は仁(人間愛)と礼(規範)に基づいて社会を構築しようとするものである。これ自身はプラトンの思想とも共通点が多い。特にプラトンが「国家」において理想的な国家のあり方を説いている説は、孔子の考え方とも共通点が多い。プラトンの生存年は紀元前427年〜紀元前347年とされており、孔子より100年新しいがいずれも2000数百年以前の東西の偉大な哲学者の思想に共通点が多いというのは大変興味ふかい。

しかしながら決定的な違いがある。それは孔子の考え方が組織や社会の存続・発展のために人はどう行動すべきかを説いたのに対して、プラトンはそれを超えて個々の人が人間であるためにどのように考え振舞うべきかを説いたことである。そしてその結果としてプラトンは、人間としてのあるべき理想的な姿は理性・知性に基づいて考え行動するべきことであるとした。人間の心は持つ大きく分けて理性(ロゴス)と感情・感性(パトス)の二つの働きを持っているが、そのうち理性(ロゴス)こそが人間が人間たるべき基本的な能力だとしたのである。

この「理性主義」とでも呼ぶべき考え方こそが、西洋をそれ以外の地域から差別化して、その後の哲学はもとより科学技術の進歩の基本的原理となったものなのである。これに対して、残念ながら孔子の哲学には理性を第一とするという考え方は見られない。いやもっというと、人間の心が理性と感情・感性の働きからなっているという考え方も、明確には孔子の哲学には現れてこない。

そして老荘思想になると、理性的な思考・行動様式というものはさらにスミに追いやられる。老荘思想で説かれるのは、人間が自然と一体となって生きるべきであるとする考え方である。そして「道」という自然の理ともいうべきものに従って人は生きるべきであるという教えになる。ここでいう自然の理は、もちろん西洋流にいう自然法則のようなものでは全くない。

老荘思想で主張されているのは、明確に言葉として語られているわけではないが、プラトン流の心の働きを理性と感情・感性に分けるという考え方から見ると、感情・感性をこそ大切にすべきという考え方である、別の言い方をすると理性否定の考え方であるといってもいい。

もちろん東洋ではその後仏教がインドで生まれ、中国を経て朝鮮・日本にも広まった。しかしながら悟りを人間が人生で達成すべき究極の目標とする仏教の考え方は、儒教老荘思想と相性がいい考え方である。現在の日本をはじめとするアジアの国々の人々の心の底には、儒教老荘思想・仏教が渾然一体となった考え方があるのではなかろうか。これは西洋の理性を最重要とする考え方と正面からぶつかる考え方である。

もちろん日本をはじめとする東洋の国でも、現在では原則としては理性主義を取り入れている。日本でも明治維新から第二次大戦の敗戦を経て、教育においては理性主義がその基本原理となっている。しかしながら私たちに本当の意味での理性主義が身についているだろうかというと、それは甚だ疑問である。

現に国会議員という日本をリードすべき人達が、しばしば感情にまかせた失言をしてマスコミ等に叩かれるのを私たちは目の当たりにしている。しかも問題はなぜその発言が失言かをわからない議員をよく見かけることである。マスコミ等が叩くので仕方なく謝ってはいるが、自分では失言とは思っていない議員が多いのではないだろうか。これこそが理性主義がまだ身についていない証拠ではなかろうか。