シンガポール通信-なぜ西洋世界は東洋世界を凌駕したか?

さて再びこの話題に戻って考えてみたい。11世紀頃から15世紀末頃までは、西洋における中世社会に対して中国社会が文化的にも科学技術でも凌駕していたことを、このブログでも何度か論じた(たとえばウィリアム・H・マクニール著「戦争の世界史」参照)。さらにイスラム社会ではそれより早く9世紀頃に文化と科学技術の絶頂期を迎え、暗黒の中世と言われた封建社会制度にしばられた西洋をはるかに凌駕していた。それが、14世紀に始まるルネッサンス・科学技術革命さらには産業革命によって、西洋は中国・イスラムを追い抜きかつはるかに凌駕し、欧米の作り出した文化・生活様式、科学技術が世界標準となった現在の時代、言い換えると欧米が世界を支配する時代を作り出したのである。

実際に中国の唐、宋、元、明を通した時代において中国社会は西洋社会をはるかに凌駕した社会だったのである。その歴史を学んでみると以下のような疑問が生じてくる。

中国の四大発明と言われる羅針盤、火薬、紙、印刷術はいずれも中国で発明されその後、イスラム等を通って西洋に伝えられた。そしてそれらはいずれもその後西洋において飛躍的な改良・発展をとげ、その後の西洋の文化や科学技術の発展に大きな貢献をした。ところが中国ではそれ以降その改良・発展は西洋に比較すると小規模なものにとどまった。それはなぜだろう。
たとえば火薬はその後西洋に伝えられて、鉄砲・大砲という武器に発展し、その後の西洋における戦争の仕方に大きな変革を与えた。さらには大航海時代に伴いポルトガル・スペインを先頭とする西洋社会がアメリカ大陸を征服し、東南アジアに進出し、世界全体を植民地化するのに大きな役割を果たした。

ところが中国においては弩と呼ばれるクロスボーが清の時代に至るまで主力武器として用いられ、銃や大砲は主力武器としては用いられなかった。そのため清はアヘン戦争によって西洋の軍隊によって敗れ植民地に等しい状態にされてしまった。このように基本的な発明をしておきながら、それがその後の科学技術の発展につながらなかったのはなぜだろう。

宋(976年〜1276年)の時代に中国では鉄鋼業が急速に発展し、当時の鉄の生産量は後の産業革命時におけるイギリスのそれに等しいかもしくはそれを凌駕していたと言われている。かつ中国本土内部に縦横に設けられた運河を用いて、鉄・農作物・工芸製品などの生産物が生産地から消費地へと相互に行き来する経済活動に支えられた社会構造とかつそれを支える商人層が台頭してきていた。まさに経済に支えられた社会が生まれようとしていたのである。

ある意味で後年西洋において生じた産業革命が中国で生じる状況が西洋に700年先んじて生まれていたのである。ところが現実には産業革命は生じず、かつ宋の時代にきわめて活発であった製鉄業は元を経て明の時代になると下火になってしまった。このように新しい産業が生まれそれに伴い経済活動が活発になった時代があったにもかかわらず、中国は再びそれ以前の中世的な社会に戻ってしまった。なぜこのようなことが起こるのだろう。

明の時代の初期に中国は西洋をはるかに凌ぐ造船術と航海術を有していた。そしてそれを用いて1405年から1433年にかけて鄭和の南海大遠征と呼ばれる大航海を実施した。その航海は数千トンの規模の宝船と呼ばれる船による船団と3万人近い乗組員によって行われインド、アラビア半島さらにはアフリカ東岸にまで至り、訪れた国々に中国との朝貢貿易と呼ばれる貿易の開始を勧めた。

これは1492年のコロンブスによるアメリカ大陸発見、1498年のヴァスコ・ダ・ガマによるインド到達に対して90年近く先んじている。さらにコロンブスの船が数百トンであったのに対して、鄭和の南海大遠征に用いた船は上に述べたように数千トンと10倍以上の規模であったのである。ところが1433年にこの航海が終了して以降中国では二度と再び国家主導によるこのような海外遠征は行われなかった。

ところが一方西洋においてはコロンブスアメリカ大陸発見、ヴァスコ・ダ・ガマによるインド到達をきっかけてとしてポルトガル、スペインによるアメリカ大陸のにあったアステカ帝国インカ帝国の征服と植民地化、東南アジアへの進出と植民地化につながり、それを引き継いだフランス、オランダ、イギリスによる全世界の植民地化へとつながった。

西洋では、ある発見・発明がそれに続く大きな発見・発明へとつながり、それが社会構造そのものを変えてしまうということが歴史の中で何度も起こってきたのに対し、中国では基本的な発見・発明がされその時点でそれは世界に先駆けていたにもかかわらず、その後の大きな発見・発明に繋がらず、時にはその偉大な発見・発明が忘れ去られてしまうという事態が何度も歴史の中で生じてきた。それはなぜなのだろうか。