シンガポール通信-「一億総活躍社会」と「一億総白痴化」

安倍政権が第3次安倍改造内閣の目玉として、「一億総活躍社会」というのを掲げている。なんとなく胡散臭いと感じられる標語であるし、そのように感じている人も多いだろう。もっとも一億総活躍ということは、日本人全員が生き生きと毎日を生活できる社会という意味であろうから、それはそれで極めてまともな標語である。

したがって正面からは批判しにくいので、マスコミなども現在のところはおとなしくしているようである。まずは安倍首相のお手並み拝見といったところかもしれない。しかしそれでもなお、一億総活躍という名前自体がどうも胡散臭く感じられるではないか。なぜだろうと考えていたのであるが、最近自分の仕事をしていてこれだという場面に出会った。

2010年に「テクノロジーが変えるコミュニケーションの未来」という本をオーム社から出版したが、その英訳本をSpringer社から出版するという話になり、現在その英訳作業をしている。その作業をしている時に大宅壮一の「一億総白痴化」という言葉に出会った。

大宅壮一は、1900年生まれで没したのは1970年である。ジャーナリスト・社会評論家として有名であった。とくに権力に対しては毒舌鋭く批評することで知られていた。「一億総白痴化」は、彼が1957年の週間東京に書いた記事に書かれていたものである。これはテレビに対する批判である。

彼は「一億総白痴化」という言葉で、テレビというメディアの番組内容が低俗なもので占められており、これを見ていると日本人全員が白痴になるという警鐘を鳴らしたのである。テレビを見ていると誰もがバカになるという「一億総白痴化」という言葉は、彼の毒舌とあいまって当時はセンセーショナルにマスコミ等で取り上げられたものである。

「テクノロジーが変えるコミュニケーションの未来」では、各種のコミュニケーションメディアが人々のコミュニケーション行為をどのように変えつつあるかを論じた。テレビもそのようなコミュニケーションメディアの一つであることから取り上げたのであるが、私自身も残念ながらテレビというメディアが人間の行為を高尚な方に持っていくのではなく、低俗化する方向に持っていく可能性・危険性が大きいと考えていた。そしてそれを裏付けるために大宅壮一のこの言葉を使ったのである。

大宅壮一のこの言葉からすでに60年近く経過した。その間にテレビというメディアはどう変化したかと考えてみると、どうも大宅壮一の警鐘にもかかわらず低俗化の方向は変わらないようである。テレビの大半の番組は、いわゆるバライティ番組で占められている。毎度お馴染みのタレントが出てきて、最近のニュースを面白おかしく論じている。

それが鋭い政治批判などになっていればそれはそれで意味があるのだろうが、大半のバラエティ番組は他のタレントの浮気話を取り上げたり、犯罪を面白おかしく取り上げたりという程度にとどまっている。その意味では大宅壮一の論じた「一億総白痴化」というのは現在でも現実の問題なのである。しかし残念ながらこの言葉はすでに忘れ去られており、テレビというメディアの番組内容の質を論じる批評も最近では見たことがない。

それはある意味で、テレビというメディアがそのようなものであるという位置付けが明確にされてしまったということでもある。テレビというメディアは大きな可能性を秘めている(秘めていた?)のかもしれないが、残念ながらその現実の使い方としてはバラエティ番組を流すのがその主たる役割であることが定着してしまったという言い方をしてもいいだろう。

つまりテレビは娯楽のためのメディアであって、それ以上のものではないという評価が定着したということである。「一億総白痴化」という大宅壮一の言葉が大きな意味を持っていたのは、テレビというメディアに人々が大きな可能性を感じていたからこそであろう。テレビが所詮は娯楽メディアであると決めつけられてしまったのであれば、娯楽のためと割り切ってテレレビを多くの人が見ている限りでは、日本人全員が白痴になるわけではないということなのかもしれない。

いずれにしても「一億◯◯」という言葉は、日本人全員が何かにかるもしくは何かをしなければならないという意味である。大宅壮一の「一億総白痴化」という斜に構えた皮肉を込めた言葉であれば、それなりの効果を持つが、それを標語として声高に叫ぶとなにやら怪しげな雰囲気を醸し出すではないか。

「一億総活躍」という言葉もそのような響きを持っている。日本国民のすべての人々が活躍できる社会はもちろん理想的な社会であろうが、それが容易に実現できるはずはないことは誰もが知っている。一億総活躍などという安易な標語を掲げるのではなく、実現可能な政策を着実に進めていき国民を納得されるのが政治というものではないだろうか。

そのような個々の着実な政策をこそ標語として掲げるべきであって、一億総活躍という安易な標語を掲げるべきではないというのが、人々がこの標語に対して感じているなんとなく胡散臭い点ではあるまいか。