シンガポール通信-高階秀爾「日本人にとって美しさとは何か」3

さて高階秀爾「日本人にとって美しさとは何か」に記されている日本美術の特徴のもう一つは次のものである。「西洋絵画がフレームの中で完結した世界を描こうとするのに対して、日本の絵画は世界の一部を描くという描き方をし、フレーム外の世界の存在を示唆する。」

西洋絵画では、絵画の中で描かれる主要な対象物は絵画の中に完全に収まるという描き方をする。もちろん風景画などは風景の一部を切り取って絵にするのであるから、景観がキャンパスの端において切り取られるような描き方になるのはやむを得ない。しかしそれでも主要な対象物は画面の中に収まるような描き方をする。

これは西洋絵画においては、キャンパスには一つの完全な世界が描かれるべきであると考えられ、その意味でキャンパスの中でその世界が完結していることが重要であると考えてられてきたからである。世界が完結しているためには、対象となる主要な対象物は画面の中に収めて描く必要があるというのが、西洋絵画の考え方であろう。

ところが日本絵画ではそのようには考えない。描かれるべき主要な対象が大胆にと画面の端で切り取られていたりすることは非常に多いのである。たとえば下に示すのは琳派絵画の代表作としてよく知られている尾形光琳の「紅白梅図屏風」である。中央にある川をはさんで左側と右側に立派な紅白梅の木がある風景である。



尾形光琳紅白梅図屏風


紅白梅図と呼ばれているほどであるから、この絵画において紅白梅(と中央の川)が主役であることは明らかであろう。ところが右側の梅の木は太い幹が途中から切り取られており、その先にある美しく咲き誇っているであろうと考えられる梅の花が描かれていない。さらに左側の梅の木はもっと極端な描き方がされている。

左側の梅の木は幹の根元の部分だけが描かれており、左側に傾斜している幹は根元からすぐのところで画面の外へと出てしまいそこで切り取られている。ところがその幹から生えている枝の一つが、再び画面の上部から右斜め下に向かって現れている。さらに下の方でその枝はV字型に折れ曲がり右上部へと上がっていき、再び画面の外へと消えていくのである。描かれるべき対象が一旦画面の外へ消え、再び画面の中に現れ、そして再び消えていくという、言葉で表現するとビデオなどの動画で表現されているかのように錯覚されかねない風景が見事に静的な絵画の世界で表現されているのである。

このような絵画形式は西洋絵画では見られないものであろう。このような描き方をすることにより、自然に鑑賞者は画面の外にある梅の木-そこにも見事な梅の花が咲き誇っていると予想される梅の木を頭の中に想像する。つまり鑑賞者の想像力をかきたてる見事な絵画形式を日本絵画は作り出すことに成功しているのである。

下は江戸時代の画家司馬江漢の絵画「樽作り」である。西洋の樽作りの様子が彼が栄養の絵画から学んだ遠近法を取り入れることにより描かれている。その意味ではこれは日本画家が描いた西洋絵画であるということができる。ところが手前にある木の描き方は極めて日本的である。



司馬江漢「樽作り」


木の幹が途中から画面左側に現れ再び上部で画面外に消えていく。ところがその消えた幹から分かれた小枝が画面上部から再び現れ下に向かって伸びている。これはまさしく先に述べた紅白梅図屏風に見られる梅の木の描き方と同じである。その意味でこれは和洋折衷の描き方であるということができる。

ここには西洋絵画特に遠近法が、風景を立体的に表現する日本には存在しなかった斬新な方法として、日本絵画に与えた影響を読み取ることができる。それと共に、西洋絵画の手法に基づいて描こうとした司馬江漢がそれだけでは物足りないと感じたのだろうか、付け加えた木が極めて日本絵画的手法により描かれていることが興味深い。これは、司馬江漢もその根底に日本絵画においてつちかわれた美意識を持っていたことを示しているのではないだろうか。