シンガポール通信-高階秀爾「日本人にとって美しさとは何か」2

高階秀爾の「日本人にとって美しさとは何か」では、絵画を中心として日本の美術と西洋の美術を比較することによって、日本人の美意識を欧米人の美意識と比較しようとしている。著者によれば、日本の絵画と西洋の絵画では以下のような違いがあるという。

1. 西洋絵画が遠近法を取り入れ立体的な表現をめざしているのに対して、日本の絵画は平面的な描写に徹している。

2. 西洋絵画が描く対象を背景も含めて見えるままに描くのに対して、日本の絵画は対象とするものを強調し他を大胆に切り捨てる。

3. 西洋絵画がフレームの中で完結した世界を描こうとするのに対して、日本の絵画は世界の一部を描くという描き方をし、フレーム外の世界の存在を示唆する。

他にも多くの特徴があるが、それらの多くはこの3つの特徴に集約される。

まず1であるが、これが西洋絵画と日本絵画の最も大きい相違であることは明らかだろう。西洋絵画では遠近法を取り入れることにより、目に見える世界と同様に立体的な世界をフレームの中に再現しようとしている。それは遠くのものを小さくかつ細部を省いて描き近くのものは大きくかつ詳細に描くという手法をとる。そして何よりも消失点を設定しその消失点から四方に発する直線に沿って全ての物体が並ぶという手法(透視図法と呼ばれる)は、遠近感覚を再現するのに大きな力を発揮するとともに、目に見えるままをキャンパスに再現するという、かっての西洋絵画の目指すものを実現するための基本的な手法となった。



典型的な遠近法に基づく西洋の風景画


これに対して日本では透視図法が西洋から紹介されるまで、これを知らなかった。用いられたのは遠景特に遠くの山などを小さく描くことによって遠近感を出す手法であって、これは立体感を醸し出すには至っていない。このことが日本絵画が西洋絵画に比較して極めて平面的に見えることの理由である。

もっとも目に見える外界をいかに正確にキャンバスの上に再現するという西洋絵画の基本的な考え方はすでに現在では古くなってきている。むしろ作者の心にあるイメージを表現するために、それに適した新しい描き方を見出し人々に提示することこそが現在の絵画のめざすところとなっている。

その意味では2とも関連するが自分の描きたい対象を明確にし、それらの複数の対象物を詳細に描くとともに、それらを自分の考える構図に従って平面上に配列するという日本絵画の手法は現在の絵画がめざすものに近いということもできる。

次に2に関しては、西洋絵画は実際に存在すものをそのまま全てキャンパスの中に描こうとする。風景画であれば風景の中に存在する近景の花々や樹木そして遠景の山々や海などを全て正確に目に映ったままに描こうとする。肖像画であれば、その背景となる室内の様子なども詳細に描かれる。

それに対して日本絵画では描こうとするものに注目しそれ以外のものは不要なものと考えて大胆に消し去る手法をとる。例えば有名な尾形光琳の燕子花図(かきつばたず)では群生している燕子花が描かれている。当然その燕子花はどこかの場所-庭園か誰かの屋敷など-の中にある池に咲いているのであろう。しかしながら、尾形光琳はそのような燕子花が咲いている場所を示す何物をも描いていない。背景は全て金色の背景として塗りつぶされており、その前に群生している燕子花のみが描かれているのである。



尾形光琳「燕子花図屏風」


私たちはこのような絵画を見慣れているため、この燕子花はどこに咲いているのだろうとか、なぜ背景が描かれていないのかなどの疑問を持つことはない。しかしながらこのような絵画は、目に入る風景を正確にキャンバスの上に再現しようとしてきた西洋の画家たちにとっては、大変新鮮なものとして映ったようである。しかも金色というのは大変華やかであると同時に強い色であるため、主役となる燕子花の印象を弱めてしまう危険性も予想される。

ところが尾形光琳は、その金色の背景が群生している燕子花の繊細さやあでやかさを引き立たせることに成功しているのである。ここには、1で述べた対象となるものを平面的に詳細に描きこむという、デザイン的な手法が役立っていることも否定できない。

つまり対象を平面的に詳細に描きこむという1の手法と背景を金色で染め抜いてしまうという2の手法があいまって、はなやかな琳派の世界を作り出しているのである。これこそが日本絵画が作り出した西洋絵画とは異なる世界観であるということができよう。そしてそれが西洋絵画の画家たちに日本絵画が大きな影響を与えジャポニズムという一つの動きを作り出した理由なのであろう。