シンガポール通信-高階秀爾「日本人にとって美しさとは何か」

鈴木大拙の「東洋的な見方」を通して、西洋一元論に基づく西洋的な見方と東洋二元論の基づく東洋的な見方について考えた。鈴木大拙が禅に造詣が深いこともあって、この著書において東洋的な見方とは多くの場合禅的な見方をさしている。禅においては「不立文字」という言葉が代表しているように、禅の精神は言葉では表現できないという考え方がある。

言葉では表現が困難な禅的な見方を言葉で表現しようとするのであるから、鈴木大拙のこの著書でも特に後半はどうしても禅の説明に特有の神秘主義的な説明になってしまっている。私たち日本人にはある程度その言いたいところが伝わるけれども、合理的な説明を期待している欧米の読者に本当に禅的な見方が理解されたのであろうか。その辺りは疑問である。

西洋二元論に基づく西洋の合理性に対して東洋二元論に基づく東洋の非合理性(この言葉は合理性を欠くという意味に取られやすいので本当は使いたくないのだが)は、多くの場合言葉で説明することが困難である。このことが、未だに欧米が日本を含めて東洋の宗教を始め哲学・美術などに何か神秘的なものを期待する原因となっているのであろう。

もちろん仏教には神秘主義が存在するが、それはどの宗教も同様であって、西洋合理主義と並存しているキリスト教にも神秘主義は存在している。しかし言葉で表現困難ということと神秘主義は別に同義語ではなくて、禅は決して神秘主義的なものではない。

前回も書いたように禅におけるその最終目的である「悟り」は、座禅という身体的な体験を経て到達できる究極的な身体的体験とでもいえるものである。それはスポーツにおいてある技を習得した場合に訪れる、「これだ」という感覚と同レベルのものであると考えられる。そしてそれは忘我などの言葉で表現される神秘的なものではなく、運動の場合と同様の清々しい感覚であると考えられる。

このように禅の本質が説明困難であるということにもかかわらず、禅の位置付けが海外でも認められているのは(もちろんそこには禅や悟りを神秘主義的な立場から理解しようとする誤った立場も多いと思われるが)、何と言ってもそれがめざす「悟り」が言葉で表現困難であっても欧米人にも感覚的にはなんとなく理解できるからではないだろうか。

またキリスト教などにも修行を通して達成できる心の平安や静けさという概念があり、それが悟りと通じるところがあるからではなかろうか。つまり宗教というものは洋の東西を問わずその真髄には共通する部分があるのである。

さてそれでは他の種々の東洋的な見方においてはどのような状況なのだろうか。はたしてそこでは西洋的な見方に対置される東洋的な見方を主張するに足る合理的説明が可能なのであろうか。それとも禅の場合と同様に深いレベルでの説明を行おうとするほどに説明が困難になるという状況が生じるのだろうか。

このことを知るために、東洋的な見方の別の例として日本人の美意識を考えてみよう。古くから日本人は日本人特有の美に対する意識を持っていると言われてきた。特に最近は「かわいい」に代表されるように、日本発のキャラクタやアニメ、漫画、ゲーム、さらにはコスプレなどが日本国内のみならず海外でも多くのファンを集めている。

これらは「クールジャパン」の名でくくられることが多いが、それらは決して日本人が最近持ち始めた美意識というわけではない。日本初のキャラクタやアニメを見てもわかるようにそのそこには日本の伝統的な美意識が潜んでおり、それが強調された形で表現されていることにより海外の人たちにも分かりやすい形になっているのではないかと考えられる。

そこで日本人の美意識を開設した著書として、高階秀爾著「日本人にとって美しさとは何か」をとりあげる。高階秀爾(1932年生まれ)は日本を代表する美術評論家東京大学教授を経て現在は大原美術館艦長を務めている。ルネッサンス以降の西洋美術を専門としながら日本近代美術にも造詣が深い。

この著書は西洋美術にも日本美術にも造詣が深いという彼の経歴を生かして、日本の近代美術を西洋の近代美術との対比を行うことにより、日本の美術特に近代美術の中に潜む日本的美意識を取り出し解説しようとしたものである。

ここで美術というのはとくに絵画をさしている。日本の近代絵画は西洋の近代絵画から大きな影響を受けるとともに、「ジャポジズム」の名で知られているように西洋絵画にも大きな影響を与えた。そのような日本の近代絵画に潜む日本的美意識がはたして欧米人にも分かりやすい形で合理的に説明してあるだろうか。