シンガポール通信-鈴木大拙「東洋的な見方」3

鈴木大拙のこの著書は、東洋一元論に基づく「東洋的な見方」というものを西洋二元論に基づく西洋的な見方と対比させて論じようとしたものだと理解できる。この著書は、鈴木大拙が晩年に書いたエッセイからタイトルの通り東洋的な見方に関わる14編を選んで一冊の本としたものである。

その最初の数編は、東洋一元論と西洋二元論の比較を一般論として論じており、東洋と西洋の比較に興味を持つ者にとっては大変興味深い。しかし鈴木大拙が本来禅に大変興味を持っているため、徐々に話は禅に関する話へと発展していく。すなわち「東洋的な見方」は「禅的な見方」へと焦点を移していくのである。

それと共に、禅問答がしばしば出てくる。そして鈴木大拙の説明も禅問答の説明へと焦点が移っていく。それと共に当初この本が持っていた、東洋的な見方を常に西洋と東洋の比較の上で論じようという姿勢が徐々に後退して、禅の説明が中心となっていくのである。

もちろん海外滞在経験が長い鈴木大拙は、その海外滞在体験の間に身につけた西洋的な合理的思想は常に保持しており、そのような観点から禅の説明を行おうとはしている。とはいいながら、彼の説明によって欧米の読者に東洋的な見方と西洋的な見方の対比、とくに東洋的な見方の極みとでもいうべき禅的な見方が理解できるであろうか。その点ははなはだ疑問である。

合理的思想をベースとした西洋的な見方は、言葉を使って説明を行いやすいという利点を持っている。もともと言語は、合理的な考え方を表現するための便利な道具だからである。しかしそれに対する東洋的な見方は、西洋の合理主義に対していわば非合理主義とでもいえるものである。

合理的でないものを、合理的なるものを説明するのに用いられる言語を用いて説明しようとするところに、無理があることは明らかである。その非合理主義の極致ともいうべき禅においてはなおさらである。本来禅は、禅的なるものを言葉でもって説明することの限界をよく知っていた。

そのため禅では「不立文字」ということがよく言われる。不立文字とは、言葉を立てないという意味であり、もっと具体的に説明すると「禅の真髄を言葉で持って理解することは困難である。したがって言葉で理解するのではなく、座禅という体験を通して悟りへと至るべきである」という意味になる。

いずれにせよ悟りという境地に至るには、禅の精神を論理的に理解することによって到達しようとしても、それは不可能であると禅ははっきりことわっているのである。むしろ禅が説くのは、ひたすら座禅をするという修行を通して悟りを体験すべきものであるということである。

ここに禅が合理の世界とは別の世界のものであることが示されている。私たちが学ぶ知識は合理の世界のものである。多くのものを学べば学ぶほど知識や見方が広がり、かつ種々の知識の間の相互関係が理解できてくる。そして社会の成り立ちや仕組みさらにはそれがどのようにして動作し発展して行っているかが理解できるようになる。

このようなことに長けた人たちが「知識人」と呼ばれるわけであり、なにか大きな問題例えば最近のイスラム過激派によるテロ事件が起こると、テレビの番組に出てテロ事件の背景を説明したりするわけである。すなわち頭で考える知識に関する領域では、知識を習得するとともに合理的に考えることによって、その分野のエキスパートになるわけである。この過程は、私が著書「テクノロジーが変えるコミュニケーションの未来」で論じた「精神的体験」と呼ばれるものに属する。

それに対して、座禅によって悟りへ至るとする禅におけるプロセスは、心で感じる世界ではない。座禅という体を使ったプロセスであって、その極限に突如として悟りという境地が開けるのである。これは例えばゴルフをしていて、ある時突如としてゴルフのスイングの仕方に目覚めるといったプロセスに極めて似ている。

したがって座禅とスポーツは似ており、その極地に悟りという体験があるのである。したがって禅および禅における極限の体験である悟りは「身体的体験」なのである。ゴルフのスイングを論じた解説書は山のようにあるが、それを読んでもゴルフが上手くなるわけではない。結局自分で練習してある日突然、「これだ」というスイングにおける悟りに達するわけである。

東洋的見方が属するのは合理性の世界ではなく非合理性の世界なので、言葉で説明しようとしても無理がある。したがって東洋一元論と西洋二元論に関する一般論の説明に終始している間はいいが、東洋的見方を深く説明しようとすると非合理性の世界の説明になり禅における「不立文字」と同じく、言葉で説明不可能ということになる。

ここに鈴木大拙といえども、東洋的見方の典型ともいうべき禅的な見方の説明を行う段階では合理的説明を離れざるを得ないという問題にぶつかっている状況を見いだすことができる。私たち日本人はこの著書を読んでいてある程度解った気になるが、欧米人にとってはやはり理解が困難なのではないだろうか。いや合理的考え方による教育を受けてきた私たち多くの日本人も、言葉の通り解った気になっているだけで、実は本当には理解できていないのかもしれない。