シンガポール通信-鈴木大拙「東洋的な見方」2

鈴木大拙の優れた点は、アメリカ・ヨーロッパにおける通算すると20年以上の滞在経験を基に、東洋と西洋の考え方・見方さらには哲学を共に良く知った上で、西洋に対しては東洋的な考え方・見方の優れた点を、また東洋に対しては西洋の優れた点を紹介しようとしてきたことにあることを前回述べた。

東洋的な見方と西洋的な見方の根本の相違は、いわゆる東洋一元論と西洋二元論の違いである。鈴木大拙のこの著書でも最初の数章を割いて、東洋一元論と西洋二元論の違いについて論じている。

このブログでもなんども論じてきたが、西洋二元論の基本的な考え方は対象となる物事を二つに分割し、これを繰り返すことによって物事を単純な性質を持つ要素に分解して行き、その要素の性質を調べ、明らかになった性質の総合体として物事の性質を理解しようというものである。言い換えればそれは分析的な手法である。

鈴木大拙も論じているように西洋二元論の優れた点は、対象を分析して理解しようとする科学的態度に通じることとなり、それが科学技術の発展を促したことである。鈴木大拙は科学技術の急速な発展に触れ、人間が月に到達する日も近いと予言しているが、それはよく知られているように彼の死後すぐ1969年に実現する。

ただ一方で科学技術の発展は未知の物を知りたいという好奇心・冒険心にもつながる。それは人類という種の進歩のためには必要なものであろうが、同時に宇宙や地球を征服したいという願望にもつながる。それは他の国々を征服したいという願望にもつながる。

それこそが15世紀に始まる大航海時代に端を発して、スペインとポルトガルの世界の植民地化、さらにはそれを引き継いだイギリスの世界の植民地化につながったのである。そしてそれは現在の科学技術で欧米が世界を征服している状態へとつながっている。

そしてこれもまたこのブログで主張してきたことであるが、欧米が科学技術と文化で世界を支配しそして彼らの生活様式・価値観を世界中に押し付けようとしてきたことが、イスラム国に代表されるイスラム過激派のテロを生んでいるのである。

もちろん1966年に死去した鈴木大拙イスラム過激派のテロに揺れる現在の世界を知っているわけではないが、彼の著書の中で、西洋二元論が対立を生み征服願望や侵略主義を生むことを指摘している。

よく知られているように西洋においては、ギリシャプラトンの時代から人間を知性と感情を備えた動物とみなしてきた。そして知性を感情に優先する人間が育てていかかければならない機能であると明白に主張してきた。言い換えれば知性優先主義こそが西洋哲学や西洋社会がプラトン以来の2500年にならんとする歴史の中で実現しようとしてきたことなのである。

そしてその西洋二元論に基づく西洋的な見方が曲がり角に来ていることを、鈴木大拙は指摘している。彼の晩年は第二次世界大戦終戦後の時代に相当する。日本・ドイツ・イタリアを破った欧米の国々特に米国が、世界の盟主として自他共に任じていた時代である。具体的な例を論じているわけではないが、この時代にすでに西洋的な見方の行き詰まりを予想していたという意味では、鈴木大拙は極めて先見の明のある人であったといえるだろう。

このことを主張した後で彼は、東洋一元論の特徴と利点について論じている。そして東洋一元論に基づく東洋的見方の根底には西洋的な分割的知性がないことを指摘している。いやもっというと知性というものにそれほど重きをおかないのである。知性は物事を分割的・分析的に見る見方の基本的考え方である。

それに対して東洋的見方では分割的な見方・分析的な見方をしない。老荘思想に典型的に見られるように、最初から統一的な見方・統合的な見方を志向するのである。ただ統一的・統合的な見方というのは、分析的見方をした後で個々の要素を融合するという過程と見ると理解しやすいが、東洋では分析的見方なしで最初から統一的・統合的見方へと向かうのである。

ここに東洋的見方が、西洋人にはもとより東洋人によってもなかなか理解されない理由があるのではなかろうか。鈴木大拙は禅を東洋的見方の代表的なものとしてあげており、禅の説明にこの著書の多くの部分を割いている。そこでは常に西洋的な見方と対比させて禅の説明を行っている。しかしそれでも鈴木大拙のこの著書を読んで、西洋の人たちが東洋的見方等者の特徴や西洋的見方との本当の意味での差異を理解できたかどうかは疑問である。鈴木大拙をもってしても禅の説明が難しいのはなぜだろう。