シンガポール通信-鈴木大拙「東洋的な見方」

東洋一元論対西洋二元論もしくは日本やそれを含んだアジアと西洋の関係を考えるとき鈴木大拙を外して考えることはできない。鈴木大拙は1870年に生まれ1966年に没している。禅思想を中心として老荘思想などにも詳しく、これらに基づき日本的な考え方・見方さらにはそれを含めて東洋的なる見方・考え方とは何かを終生追求した。

さらに鈴木大拙が他の日本思想・東洋思想の研究者と異なるところは、海外滞在体験が長いことである。1897年に米国に渡り1909年に帰国するまで出版社で勤務しながら善に関する本を出版した。また1949年から58年にかけて米国に住み米国各地で仏教思想の講義を行った。海外生活体験は通算25年に及ぶ。さらには米国人の女性とも結婚している。その意味では日本における国際人としての先駆者であった。

その長期の海外滞在体験を通して、鈴木大拙は西洋的な考え方にも通暁し、まさに東洋的な考え方と西洋的な考え方の両者に通じていたわけである。その上に立って、東洋的な考え方、特に仏教思想やその中でも禅の思想を広く海外の人々に説いて回った。鈴木大拙が国内のみならず国際的にも広く知られているのは、このように仏教思想や禅の思想を西洋的な考え方・見方をも知った上でそれと対比する形で説明することにより、海外の人々の仏教思想・禅思想に対する理解を深めたことが大きいと考えられる。

鈴木大拙の生きた時代はまさに20世紀の動乱の時代である。その間に第一次世界大戦第二次世界大戦の二度にわたる世界規模の戦争が起こった時代を経て、終戦後の時代の変化をも十分に経験している。

日本に関して言えば、彼が生まれたのはちょうど明治時代に入り日本が海外に門戸を開き、西洋の文化や技術が奔流のように日本に流れ込み始めた時代である。それまでの日本が持っていた日本文化とは大きく異なる西洋文化・西洋技術が急激に流入した時代は、日本のアイデンティティが破壊され日本が混乱状態になる可能性を持っていた時代でもある。

一つ間違えば、かっての中国のように日本が西洋の国々の利権に振り回され、ある意味で日本が西洋の国々の植民地になる可能性もあったわけである。しかし幸運にも日本はこの急激な近代化の過程を成功裏に駆け抜けることができ、日清戦争日露戦争を経て世界の大国の一つに数えられるまでに成長した。

しかしながらその明治維新を経て日本が急激に近代化し世界の強国の一員になったという成功体験が、日本を覇権主義への道を歩ませることとなった。そして日本の覇権主義が西洋の国々と対立を深めることにより、米国を中心とした西洋諸国を相手に第二次世界大戦を行うという愚に走ることとなった。

そして第二次世界大戦に敗戦した後は、実質的に米国の占領下・支配下に入ることとなり、急激な米国文化の流入に直面することとなった。第二次世界大戦の敗戦後の急激な米国文化の流入は、明治維新における旧的な西洋文化・西洋技術の流入に匹敵する日本文化の危機であったといっていい。

一見日本はこの第二の開国に伴う日本文化の喪失の危機を乗り切ったかのように見える。日本の伝統文化は残したまま、西洋文化・西洋技術の利用できる部分のみを取り入れるという日本文化と西洋文化の融合に成功したという見方をすることもできる。しかし一方では日本はその伝統文化の根底にあるものを失って米国の属国になってしまったという見方もある。いずれが正しいかは現時点ではまだ不確定なのかもしれない。

鈴木大拙が生きたのは、このような日本が西洋文化・西洋技術を取り入れることにより言い換えれば西洋化することにより急激に近代化するとともにその頂点において西洋諸国との戦争に破れるというまさに動乱・混乱の時代であったわけである。

そして彼の最晩年である1960年代は日本が戦後の混乱期を乗り切り高度経済成長期に入った時代である。この時期に日本人は敗戦で失った自信を取り戻し始めていた。しかしそれは日本的な見方、東洋的な見方を古いものとして捨て去り、西洋の見方・考え方を正しいものとして全面的に取り入れることにより達成されたものかもしれない。

鈴木大拙が一貫して主張してきたのは、この東洋的な見方・西洋的な見方のいずれが正しいかという単純な二者選択ではない。いやまさにこのような考え方こそ西洋二元論の基づくものであろう。そうではなくて、鈴木大拙が主張したかったのは、西洋二元論に相対する考え方として東洋一元論があること、そして西洋二元論だけではぶつかる壁を東洋一元論が越えることができるということではないだろうか。