シンガポール通信-東洋一元論と日本の革新的技術

東洋一元論を論じてきて、それが日本人(もしくは日本人を含めたアジア人)の「効率の良さ・便利さ」を嫌い「すがすがしさ・心地の良さ」を好む基本的な性向を決める原因となったのではないかということを論じた。

一見「効率の良さ・便利さ」と「すがすがしさ・心地の良さ」は似ているように感じられる。しかしながら、それらは基本的には別のジャンルに属するものである。「効率の良さ・便利さ」は、私たちの生活の物質的な面に関わっている。電気掃除機・電気洗濯機などの家電製品がその代表例である。それらは例えば、掃除や洗濯に要する時間を短縮してくれるという意味で、便利であり効率的である。

別の例で言うと、車・鉄道・航空機などは移動時間を短縮してくれる。しかしだからといって読書を通して得られるものを、これらの家電製品や車などが実現してくれるわけではない。つまり「効率の良さ・便利さ」は別の言葉で言うと、私たちの生活を物質的に豊かにしてくれることを意味している。

それに対して、「すがすがしさ・心地の良さ」は人間の精神面に関わってくる。読書をしたからといって、何かが便利になるわけではないし効率的になるわけではない。しかしながら読書をすることによって先人の知恵に触れることは、私たちの心を豊かにしてくれるのである。すなわち「すがすがしさ・心地の良さ」を実現するということは、別の言葉で言うと私たちの生活を精神的に豊かにしてくれることを意味している。

すなわち言い換えると、西洋二元論に基づく欧米社会では物質的な豊かさの追求が社会を進歩させる基本的な力になったのがこれまでの歴史であるのに対して、東洋一元論に基づく東洋社会では精神的な豊かさの追求がこれまでの東洋の歴史であったのではないだろうかということである。

このような考え方は物事を単純に論じ過ぎているかもしれない。しかしこのように考えると、なぜ日本では(そして日本以外のアジアでも)アニメや漫画、さらには日本のキャラクタが受けるのかということが説明できるのではないか。アニメや漫画やキャラクタは決して私たちの生活に効率の良さや便利さを持ち込むものではない。そうではなくて、楽しさや心地よさを与えてくれるものであり、言い換えると精神に豊かさを提供してくれるのである。

もちろんフランスを中心に欧州や米国でも最近日本のアニメや漫画やキャラクタがヒットし始めている。これはもちろん欧米人も彼らの心の底には楽しさや心地よさを受け入れる感受性を持っていることを示している。それが西洋二元論に基づく欧米の合理主義をよしとする文化に押されて心の奥に眠っていたものが、アジア文化の台頭とともに目覚めてきたということではないだろうか。

これこそが、欧米文化がアジア文化に目を向け始めたことを意味していると私は考えている。そしてなぜそれが生じたかまたいつ生じ始めたかが、私が前著「アジア化する世界」で論じたかったことなのである。

と同時に「アジア化する世界」で論じきれなかったこともある。「アジア化する世界」では20世紀までは世界を欧米文化が支配していたのに対して、アジア文化が台頭してき始め21世紀はアジアの世紀になる可能性もあるというポジティブな書き方をした。

しかし最近考えるのは、果たしてそのような楽天的な考え方でいいのだろうかということである。確かにアニメ・漫画・キャラクタといった文化においては日本は世界をリードしてきた。しかしながら、これらはコンテンツに関するものであり、技術ではない。一方で、ここ数十年の間に日本から革新的な技術が生まれただろうかという疑問がわいてくる。

近年生まれた技術、例えばスマートホンにしてもFacebookにしてもまたTwitterにしても、残念ながらそれは米国で生まれその後世界に広がったものである。その意味では未だに技術の世界では欧米が世界を支配しているのである。スマートホンに関しては日本におけるiモードがその先鞭をつけたという考え方もある。確かにネットワーク機能を持った携帯電話という機能的な面にだけ注目するとiモードはスマートホンに先んじていた。

しかしキーボードをなくしてタッチ入力によってほとんどの機能がはたせるというスマートホンは、やはり全体的にみるとiモードとは別の真の意味でのPCと電話を融合した新しいデバイスであるということができる。そして革新的なデバイスであるがゆえに世界中に広まった、いやもっというと世界中の人たちの間にスマートホン文化を拡げ、世界を変えたのである。