シンガポール通信-東洋一元論とクールジャパン

前回、日本人は合理主義に基づく「便利さ・効率の良さ」よりも「心地よさ・すがすがしさ」のような精神的なものに心を惹かれるのではないかということを述べた。

「心地よさ・すがすがしさ」に惹かれるのを東洋の哲学の原点である東洋一元論と直接繋ごうというのはいささか無理があるかもしれない。しかしながら、日本人の好きな「かわいい」から始まるいわゆる「クールジャパン」的なるものの原点は、この心地よさ・すがすがしさを好む国民性にあるのかもしれない。

そしてそれは日本だけではなく、韓国、中国、東南アジアも含めたアジアの人々に共通した国民性ではなかろうか。そしてその原点には前回述べたように機械によって実現される便利さ・効率の良さを良しとしない文化があるのではなかろうか。

そしてその根底には、孔子による儒教の教えや老子荘子による老荘思想があるといったら言い過ぎであろうか。孔子論語老子荘子の本を読んだ人はそれほど多くないであろう。しかしながらかれら古代中国の偉大な哲学者の教えはアジアの国々の文化に浸透している。

年上を敬い、老人を大切にする、また組織においては自己主張をするよりも組織全体の利益を考えグループの和を大切にするなどの考え方は、明らかに孔子からきているものである。また自分の周りの環境や自然との一体感を大切にしたり、自然に囲まれて孤独な生活を楽しむといった態度は老荘思想からきているものではなかろうか。

特に年上を敬う、また自己主張をしないという文化は、日本人の間ではよく見られるものであるが、それと同時にアジアの人々の間でもごく自然に見られるものでもある。私がシンガポールの大学に勤務していた時にも、これらの態度が大学に来ているシンガポール人の学生や近隣の東南アジアの学生にもよく見られた。

例えば私のいた研究所で学生や研究員達のマネジメント層に対する意見を聞こうと思ってミーティングを開いても、なかなか誰も発言しようとしない。周囲を見ながら誰かが発言するのを待っている様子である。指名すると自分の意見を述べるので、意見がないというわけではない。ただ自分が先頭に立って発言すること、いわば自己主張をして目立つことを嫌うのである。いわゆる「沈黙は金」という態度である。

私はこのような態度は日本人の間にだけ見られるものと考えていたので、当初このような態度に出会って驚いたものである。そしてそれ以降も何度もこのような状況に出会って理解したのは、なるほどこのような態度はアジア人に共通しているのだということであり、それと共にアジアの中ではアメリカナイズされているといわれるシンガポールもアジアの一員なのだということであった。

また目上を敬うという態度は特に韓国人の学生に顕著である。韓国人の学生と一緒に歩いていると少し後ろに下がって付いてくる。なぜ一緒に並んで歩かないのかと尋ねると、目上の人と歩くときは後ろに下がってついていくのがマナーであるという答えであった。日本ではすでに死語になっている「三歩下がって師の影を踏まず」という態度がまだ現実に韓国では生きていることに驚かされたものである。

また一緒に居酒屋で酒を飲むときに、私の前にいた韓国の学生が後ろを向いて杯を開けるのに驚かされたことがある。これも聞いてみると、酒を飲むといういわば開放的な態度は目上の人に見せるのは良くないと聞かされており、後ろを向いて飲むのがマナーだという。なるほどそう言われればそのような態度を理解できないわけではないけれども、日本では全く出会ったことのない態度なので、最初は当の学生が気分でも悪くなったのかと驚いたものである。

このような儒教老荘思想に基づくアジア人の態度に見られるのは、全体の和を尊ぶ文化であり、それを実現するためには自己主張をするのではなくて、自分を抑えてでも全体の和が保たれるように心がけるという態度なのである。

それはそれで世界に誇れる立派な文化であろう。しかしながら、その根底に技術を嫌う精神があったとしたら、それが現在の日本人を含めアジア人の創造性に影響を及ぼしていないだろうか。たしかにクールジャパンでひとくくりにされるアニメ、漫画、キャラクタなどの世界では日本人の創造性が発揮されており世界で愛されるアニメ、漫画、キャラクタを生み出している。

しかしその半面で、残念ながら特にネットワーク時代になってから日本発で世界標準となった技術は生まれていない。その根底に技術を嫌う考え方があるとすればこれはどう対応すべきかを含めて大きな問題ではないだろうか。