シンガポール通信-東洋一元論・西洋二元論と科学技術の発展2

昨日国際会議の後でフランスからの女性参加者と話をしていて、イスラム過激派によるテロの話になった。

その際私は、イスラム教における政教一致の基本原理とキリスト教における政教分離の基本原理の違いが、中東と欧州の思想・科学技術の決定的な差を生み出したと考えていることを述べた。そしてその結果として、現在の世界において欧州と米国を含めた欧米の文化・科学技術が支配していること、またそのような欧米の支配から脱却しイスラム教のオリジナルな思想に帰ろうというのがイスラム原理主義の考えであると考えることを述べた。

これに対して相手のフランス人は、この意見に基本的なところでは合意してくれた。またそれと共に彼女の意見は、キリスト教の場合も政教分離の考え方が浸透したのは中世が終わってルネッサンスが始まって以降であること、中世の間は教会が支配していた中世ヨーロッパでは政教一致が実施されていたというものであった。

確かにその通りであろう。このブログでも何度も述べたように、欧州でルネッサンス大航海時代が始まるまでは、中東やアジアが文化的にも科学技術の面でも西洋を凌いでいたのである。それがルネッサンス大航海時代の始まりと共に西洋の大進撃が始まり、現在の欧米が世界を支配している状況へと繋がったのである。

ルネッサンス大航海時代の始まりは何がきっかけだったのであろう。そしてそれによって西洋の人々は何に目覚めたのだろう。これを解明することこそ、テロに揺れる世界のこれからの方向を知るために必要なことではあるまいか。

それと共に私が気になっていることの一つに、科学技術の発展の西洋と東洋のスピードの違いの根底に、「便利さ」「効率の良さ」というものに対する西洋と東洋の考え方の違いがあるのではないかということである。

荘子」の外編「天地」に興味深い話がある。孔子の弟子の子貢がある時農村地帯に出かけた時にある農夫が井戸から水をくんで畑にやっているのを見つけた。子貢がその農夫に「なぜはねつるべを使わないのか」と聞いたところ、その農夫は「何でも機械に頼るものには機心がある。この機心を自分は嫌うゆえそれを利用しないのだ」と答えたというのである。

(この話はよく知られているらしく幾つもの本にこの話が書かれている。私自身は「天地」を読んだことはないので鈴木大拙「東洋的な見方」に書かれているものを引用した。)

機心」とはあまり聞いたことにない言葉であるが、まさに書かれた通り、機械に頼る心と理解すればいい。機械に頼ることになると、その結果として得られる便利さとか効率の良さとかを追い求めるようになる。そのことは精神の高みをめざす方向、すなわち宗教がめざす方向とは逆の方向であるため、機械を使わないのだというのである。

この話を聞くと、私たち日本人はなんとなく納得するところがあるのではないだろうか。それと同時に、わかってはいるがやはり機械を使って便利さとか効率の良さを追求してしまっている自分に対するきまりの悪さとか心地の悪さを少々感じるのではあるまいか。

ここに、日本人を含め東洋人の心の底にある基本的な考え方とか感じ方が反映されているのではあるまいか。一方で、欧米人にこの話をしてもその意味を全く理解してもらえないのではないだろうか。(これは何かの機会に欧米人に聞いてみたいと考えている。)

欧米の合理主義では「便利さ」「効率の良さ」こそが追い求めるべきものであり、それを実現するために新しい技術を開発しようというのが欧米流の考え方ではないだろうか。したがって荘子の話に出てくる農夫が便利さを実現してくれる機械があるのにそれを使わないとうのは全く理解できないのではないだろうか。

それに対して、東洋では「便利さ」とか「効率の良さ」というのは最上の重要性を持つものとは考えられてこなかったのではないだろうか。私たち日本人にとって、別に孔子とか荘子の本を読まなくても、親から聞いた話や小中学校の授業で聞いた話などの中にこれらの教えがちりばめられているため、記憶のどこかにそれが残っているのではあるまいか。それが私たちの感じ方・考え方の奥底にあり、このような話を聞いたときになんとなく納得してしまうのではあるまいか。

それでは「便利さ」「効率の良さ」のかわりに身近なところで私たちは何を重要なものとしてきたのであろうか。それは「すがすがしさ」「心地よさ」のようなものではないだろうか。これらは一見「便利さ」「効率の良さ」と似ているように聞こえるが実は全く別のものである。

「便利さ」「効率の良さ」を実現するためには技術が重要な役割を果たすが、「すがすがしさ」「心地よさ」を実現するには、必ずしも技術は必要としない。むしろ良好な人間関係を保っていること、美しい自然環境に囲まれていることなどの方がこれらを実現するためには重要である。ということは、私たち東洋人はある意味で荘子のこの話に出てくる農夫の精神性を受け継いでいるのではあるまいか。