シンガポール通信-東洋一元論・西洋二元論と科学技術の発展

よく言われることであろうが、西洋二元論が西洋の科学技術の発展を促したという議論がある。二元論の基本的な考え方は、すべての物事を二つに分けていくことによって種々の要素に分解しそれらのシンプルな要素の集合体として全体の機能を理解しようとする態度である。言い換えると分析的態度である。

科学技術の根底となる姿勢は分析であるから、二元論は科学技術の基本的な原理となりうる。したがって二元論をベースとした西洋の考え方が西洋における東洋に対する圧倒的な科学技術の優位性を生んだという考え方である。これは説得力のある意見である。

しかしそれでは東洋な新しい科学技術を何も生み出してこなかったであろうか。そんなことはない。よく知られているように中国の四大発明と言われるものがある。羅針盤、火薬、紙、印刷である。これらはいずれも西洋に先んじて中国で発明されその後の世界の文明に大きな影響を与えた。

まず羅針盤は、11世紀中国では宋の頃にはすでに発明されていた。その後13世紀元の時代にマルコポーロによって西洋に紹介され、その後改良されて15世紀に始まる大航海時代に遠洋航海においてなくてはならない技術として用いられた。ここでは中国で羅針盤が発明され使い始められた頃から13世紀に西洋に伝播した頃まで約200年の差がある。言い換えれば羅針盤に関しては中国は西洋に比較して200年先んじていたのである。

次に火薬は、7世紀〜9世紀の唐の時代にすでに中国では発明されており、13世紀のモンゴル帝国の時代には火薬弾が用いられており、さらには鉄砲が発明された。元寇の時にもモンゴル軍は鉄砲を用いていたと言われている。そして火薬・鉄砲はモンゴル帝国のヨーロッパ侵攻の際に西洋に伝えられた。ここでも火薬の中国での使用を8世紀とし西洋への伝播が13世紀とすると、火薬の技術に関しては中国が500年西洋に先行しているのである。

紙はすでに紀元前に中国で用いられており、漢の時代 105年に蔡倫が紙を当時の皇帝に献上したとの記録があり、そのため蔡倫は製紙技術の改良者として知られている。そして製紙技術は唐の時代8世紀(751年)にイスラム世界に侵攻しようとした唐軍がタラス河畔の戦いで敗れ紙職人が捕虜となったことからイスラム帝国へと伝わった。その後紙は広くイスラム世界で用いられ12世紀までにはヨーロッパに伝わったと言われている。紙の中国での紙の使用を2世紀ごろと考えると、製紙技術や紙の使用に関しては中国が西洋になんと1000年程度先んじているのである。

さらに印刷術に関しては、木版印刷に関しては実は法隆寺に残されている8世紀ごろの仏典が最も古いものである。その技術は中国から伝わったものと考えられるから8世紀以前に中国において発明されていたことになる。活字印刷に関しては11世紀中国の宋の時代に発明されたようである。それに対して西洋で活字印刷技術が発明されたのは15世紀半ば(1445年頃)有名なグーテンベルグによってである。活字印刷技術に関しても中国は西洋に比較して約400年先行していたわけである。

このように中国の四大発明の全てにおいて中国は西洋に200年〜1000年先んじている。さらにこれらの技術が西洋で大きな力を発揮し始めるのは、14世紀に始まるルネッサンス時代や15世紀の大航海時代において、中世が終わり西洋が新しい近世の時代を迎えてからである。

それに対して中国では、11世紀〜12世紀の宋の時代にそれ以前の時代の発明も含めて四大発明全てが出揃ったわけである。宋の時代を中国のルネッサンスと呼ぶことがあるが、これはこのような状況を見渡してのことであろう。

これらのことから、11世紀から15世紀初めの中国における宋・モンゴル帝国・元・明の初期にかけては、中国は科学技術やその他の文化の面で西洋を圧倒していたのである。それが明の中期以降、明では海禁政策と呼ばれる一種の鎖国政策をとり、それによって急速に科学技術の分野では西洋に遅れをとり始めるのである。

中国が明の中期以降科学技術の面でも経済の面でも西洋に立ち遅れ始めたのは海禁政策によるとの考え方は、歴史学者の間にもあるようである。日本の江戸幕府がとった鎖国政策も日本版海禁政策とでもいうものである。もちろんそれによって国内の文化は成熟する方向へ向かうのであるが、海外との交流が途絶えるのは科学技術の発展の面からすると致命的である。

さて問題は、なぜ中国や日本のようなアジアの国々が鎖国という特殊な政策をとったのかということである。これも西洋対東洋の歴史の違いを考える場合における大きな論点であろう。