シンガポール通信-イスラム過激派のテロ、中国の覇権主義の根底にある東洋一元論と西洋二元論

現在話題になっているイスラム過激派によるパリのテロ事件、そして中国の覇権主義の大本の原因を考えていると、どうもそこには東洋一元論と西洋二元論の違いがあるような気がしてならない。マスコミ等ではごく最近の情勢のみからこれらの事件を理解しようとしているが、その底には長い歴史にもとづく東洋と西洋の文化の違いがあるのではなかろうか。

東洋一元論と西洋二元論の違いに関してはこのブログでも何度か論じてきたが、大変大きな問題であり、まだまだこの問題に関して論じる必要があると考えている。とはいいながら、東洋対西洋という言い方をした場合、イスラム過激派が根拠地としている中東はどうなるのかという問題も生じる。これらも含め現在のイスラム過激派によるテロや中国の覇権主義を東洋一元論対西洋二元論という観点から考える場合、それは以下のような問題を含んでいるのでないだろうか。

まず第一は、西洋二元論が覇権主義・領土拡大主義などの先鋭的な動きと結びつきやすく、東洋一元論はそのようなことはないという言い方をしたが、そのように単純に考えていいのだろうかという疑問である。本来西洋二元論は、物事を分割して考えるという思考様式の基本原理なのであり、それ自身と覇権主義的な考え方が結びつきやすいわけではない。なぜそれが大航海時代に始まる西洋がアメリカ大陸、アジア、さらにはアフリカ大陸を植民地化していった領土拡大主義と結びついたのかに関するもっと詳細な説明が必要である。

次に先に述べたように、中東をアジアに入れるのか西洋に入れるのかという問題がある。西洋対東洋という大きな括り方をした場合に、中東はアジアに入れられることが多い。しかし宗教の観点からすると、イスラム教とキリスト教は祖先を同じくする近い関係にある宗教である。事実、イスラム教の経典であるコーランには神の啓示を伝える預言者としてアダム、イブ、アブラハムモーセ、イエスなどの名前があげてあり、彼らの教えを最後に完全な形でまとめたのがイスラム教の教祖ムハマンドであると書かれている。

とするならば、イスラム教とキリスト教は似た宗教であるということになり、イスラム教徒とキリスト教徒は近い関係にあると考えられることになる。ところが現在のテロの多くはイスラム過激派が主としてキリスト教徒に向けて行っているものである。本来似た宗教を信じていたイスラム教徒とキリスト教徒の関係がなぜそのように険悪なものになったのかに関しても、もっと詳細な説明が必要であろう。

さらにキリスト教イスラム教を大きく隔てるものとして、キリスト教政教分離の考えを取り入れたが、イスラム教は現在に至るまで政教一致を基本原理としていることがある。上に述べたように、イスラム教とキリスト教が近い関係にあるのなら、なぜキリスト教では政教分離の考え方をすんなりと取り入れてそれに対してイスラム教はそうではないのだろうか。

このブログでも述べたが、生活のすべての面において宗教の教えに従った生活様式を取り入れるべきだというのが、本来の純粋な宗教のありかたであろう。これに対して政教分離主義は、宗教を人間の心の部分言い換えると精神的な部分にのみ関わるものであるとし、政治や経済さらには生活の豊かさなどの人間の個人生活や社会生活における物質的な部分は宗教の関わるところではないとするものである。

つまり政教分離主義は、ある意味で宗教の純粋さをそこなうものなのである。もっともこのように書くと、あくまで政教一致の考え方に固執イスラム教の本来の教えに基づいた生活に戻ろうとするイスラム原理主義を擁護するように聞こえてしまうが。もっとも再度いうとここにこそ、イスラム原理主義が一部のイスラム教徒さらには現代社会で疎外されている一部のキリスト教徒にも訴える力を持っている原因があるのである。そしてその結果として、彼らをイスラム過激派に加わらせる力が存在しているのである。

またイスラム過激派のテロにおいて頻繁に繰り返される自爆という手段についても、考える必要がある。自らの命と引き換えに敵を倒すという自爆は、日本の戦時中の神風特攻隊に極めてよく似ている。そしてこのような考え方は西洋には存在しない考え方ではあるまいか。自分の命を捨てても家族や仲間を救おうという考え方は西洋にも存在するだろうが、自分の命を捨てて敵を倒すというのは西洋的合理主義からは極めて遠いものではないだろうか。

もちろん西洋にも、決死攻撃とか決死隊とか呼ばれる生還の難しい困難な攻撃もある。しかしながら、最初から生還の確率がゼロであるというのと生還が難しいというのは決定的な違いがある。このような自分の生命を捨てて敵を倒すという考え方が生まれるのが、アジアと中東に共通しているのはなぜだろうか。この点に注目すると、中東はアジアに属するという考えが自然に見えてくるではないか。