シンガポール通信-領土拡大政策と宗教2

さて前回中国が本気で覇権主義や領土拡大主義を政策としているわけではないと考えられるということを述べた。さらに領土拡大主義と宗教との関係に触れ、過去の歴史を見るとキリスト教イスラム教が領土拡大主義と結びついてきたことを述べた。

イスラム教やキリスト教はいわゆる一神教である。一神教と領土拡大主義は結びつきやすいのだろうか。唯一の神を信じるということは他の神を認めないということである。もっというと他の神の存在は許してはならないということになる。一神教の熱心な信者であればあるほどそれ以外の宗教を信じている異教徒は敵であり、改宗させるかもしくは打ち倒す必要があると考えるのであろう。

一神教の熱心な信者であればあるほど、他の神を信じる異教徒を打ち破り世界を自分の信じる一神教の治める世界にしたいと願う。ここに一神教が領土拡大主義と結びつきやすい理由があるのかもしれない。

さてそれでは、異なる宗教を信じる中国や日本などのアジア諸国はどうだろう。これらの国々では仏教・儒教が主要な宗教である。仏教は欧米流の意味での「神」の存在しない宗教である。神の教えに従うことを最重要とする一神教の教えに対して、仏教では人間の一人一人が自分自身を精神の高みに持ち上げることをめざす。そしてその極限に「悟り」という境地があり、悟りを実現することこそが仏教徒の目指すものであるというのが基本的な考え方である。

釈迦はそれを達成した偉大な人物であり、釈迦の教えに沿って自分自身を精神的に高めていくことが仏教の教えるところなのである。したがって釈迦は神ではなくて、個々の人間がめざすべき悟りを達成した偉大な先達とみなすべきなのである。ここには人間をも含めて全てを創り出し、またすべてを見通す神という基本的な概念はない。

別の言い方をすると、キリスト教イスラム教は自分の他に神という存在があると信じる客観的な宗教なのである。それに対して仏教はあくまで主観的な立場にとどまり、自分自身をいかにして迷いから解放するか、自分自身の精神をいかにして高めるかということに主眼をおく。世界の創造を誰が行ったとか人間の創造を誰が行ったなどの、客観的なものごとには興味を持たないのである。

ここにアジアと欧米の基本的な考え方の相違がある。その相違は東洋一元論と西洋二元論の相違へとつながり、そのような基本的な思考の相違が現在の欧米の文明とアジアの文明を根底で分けているものへとつながっているのではないだろうか。
仏教の考え方に基づけば、別になんらかの宗教を信じる人間がそばにいても何の問題もない。その人間が心の悩みを抱えており、その解決のために相談してくれば仏教の教義を教えてやることもやぶさかではないが、その人が仏教に興味を持たなかったとしても何の問題もない。仏教は自分自身の心をどう取り扱うかということを教えているのであって、他人を仏教徒に改宗せよなどという考え方はないからである。

このことが、仏教が覇権主義・領土拡大主義と結びつきにくい理由ではないだろうか。そしてそのことが中国や日本が欧米の国々に比較すると先鋭的な領土拡大主義をとってこなかった理由ではあるまいか。

もう一つ中国やその周辺国である日本や韓国の人々のモラルの基本となってきた宗教がある。それは儒教である。孔子によって始められた儒教を宗教というのはおかしいかもしれない。孔子の教えは宗教的というよりも、個々人が他の人との関係たとえば父子、君臣、夫婦、盟友などの関係を円満に保つためにいかに振る舞うか、また皇帝などの人の上に立つ人が人々をいかに治めるべきかを説いたものだと解釈することができる。その意味では儒教はむしろ道徳だということもできるだろう。とは言いながらその教えの深さに惹かれて、儒教を宗教として扱い孔子儒教の教祖として崇める習慣が中国にあることはたしかである。

文化大革命によって、皇帝などの支配者に対する教えである儒教反革命的であるということで排斥された時代があった。しかし文化大革命から50年近く経った現在では、その頃の記憶も薄れやはり中国人の心のそこに儒教的考え方は厳然として残っていると考えられる。

五常(仁、義、礼、智、信)を人が身につけるべき徳であるとする儒教は、どう考えても覇権主義・領土拡大主義などと並立する考え方ではあるまい。儒教が現在でも人々の考え方・振る舞いの基本にあると考えられる中国・日本などでは欧米におけるような極端な覇権主義・領土拡大主義に走ることはないのではなかろうか。