シンガポール通信-21世紀は混迷の世紀か?:2

さて21世紀は混迷の時代であるとしたとき、その一つがイスラム原理主義の台頭であることは間違いない。この問題の厄介な点は、このブログでも何度も論じたがイスラム原理主義ムハンマドによって作り出されたイスラム教の原点に戻ろうという、原点回帰の考え方を基本原理としている点である。

時代とともに変化し歪んできたイスラム教の教えを正しその原点に回帰しようという主張は、人々に訴えやすい。特に純粋な考え方を好む若者に受け入れられやすい。特に、現在の社会システムの中で疎外されている底辺の人たちは、自分たちの置かれた状況がイスラム教の本来のあり方を変えてしまった現代という時代に責任があると考えやすいため、イスラム教本来のあり方に戻ろうとするイスラム原理主義に共感しやすいのではないだろうか。

今回のテロ事件に関わった人たちの多くがイスラム教徒であり、同時に現在の欧米社会に順応できず不平不満を持っている人たちであることからも、上に述べたことが正しいことがわかるのではないだろうか。

と同時に、欧米文明の上に立っている現代の社会に順応できない人たちが多いとはいえ、テロに走る人間がごく少数派であることも事実である。事実欧米に住んでいるイスラム教徒の大多数は、今回のテロ事件に関わったイスラム過激派と自分たちをいっしょにして欲しくないと訴えている。

しかし今回のテロを引き起こしたイスラム過激派に対する怒りや憎しみが、一般のイスラム教徒にまで及ぶ可能性もあることは否定できない。人間はどうしても、ごく少数のイスラム過激派に対する怒り・憎しみを、イスラム過激派の拠って立つイスラム原理主義に対するものに拡大し、そしてそれは容易にイスラム教全体を対象とするものに拡大して考えやすいのである。すでにイスラム諸国からの難民受け入れに制限を加える必要があるとの議論が欧州の国々から出始めている。

そしてここでもまた、政教一致の原則に固執するイスラム原理主義者の考え方・生き方の方が純粋に見えやすいという問題がある。そしてそれは、欧米という政教分離を基本原則として取り入れた国に住んでいるイスラム教徒の立場を、あいまいなもの不純なものとしやすいのである。

しかし宗教といえども、時代とともにその基本的な考え方を変えていく必要はあるのではなかろうか。神が人間を創造したと教えるキリスト教にとって、人間と猿が同様の祖先を持ち人間が類人猿から進化してきたという進化論は、かっては認めてはならない異端の考え方であった。特に聖書の記述を重んじるプロテスタントの信者が多い米国においては、つい最近まで学校で進化論を教えることを禁じる法律がまかり通っていた州がいくつもあったのである。

私の甥がかって米国南部の大学で学んでいたこともあって、彼に米国における進化論の受容の程度を聞いたことがある。彼が言うには、彼が住んでいた家の近所の中年以上の人たちは頑として進化論を受け入れようとせず、神が人間を創造したとする教えに固執していたとのことである。また私のパートナーの土佐も、キリスト系の小学校に通っていた際に、神が人間を創造したと教える先生(キリスト教のシスター)に対して、人間はサルから進化したと本に書いてあると反論して廊下に立たされた経験があると語ってくれたことがある。

このことは、ローマ帝国の時代から政教分離の考えを取り入れてきたキリスト教においてさえ、いまだに政教分離の教えが徹底していないことを示している。つまりイスラム教やキリスト教などの宗教の教えに忠実であろうとすればするほど、政教分離の考え方に基づいた考え方や生活の仕方に矛盾点や不純なものを感じてしまうのである。キリスト教に比較するとずっとその成立が遅く、かつ政教分離の原則をずっと守ってきたイスラム教においてはこのことはより深刻な問題なのではあるまいか。

今回のテロの元凶であるイスラム国に対して戦いを宣言しイスラム国を打倒することをめざすからには、その理由が「テロは許されないから」では弱いとこのブログでも書いた。戦いを開始するからには、その戦いを正義とする主義・主張が必要である。それを一言で言うならば、「イスラム過激派が拠って立つイスラム原理主義政教一致の考え方はすでに古いものであり、それに固執することは間違っている」である。欧米諸国はイスラム国に対してそれを明確に宣言する必要があると私は考える。

と同時に欧米諸国に住んでいるイスラム教徒も、現代において生きていくためには政教分離の考え方を取り入れることが必要であり、彼らはすでにそれを受け入れていることを明確に宣言すべきではないだろうか。これを行わない限り、イスラム原理主義の純粋さに魅せられイスラム過激派に身を投じようとする若者は後をたたないのではないだろうか。