シンガポール通信-21世紀は混迷の世紀か?

21世紀はアジアの時代であるといわれることがある。これは中国をはじめインドなどアジアの諸国が急速な経済発展を遂げていることから、21世紀はアジアの国々が欧米の国々と経済面や政治面で対等にわたりあえるか、もしくはそれを凌駕する時代になるであろうという予想の上に立っている。

一方で21世紀は混迷の時代だという言われ方もある。現在世界を震撼させているイスラム過激派によるテロや中国の覇権主義などが、欧米の民主主義+資本主義を基本とした社会システムに対して異なる原理を持ち込みつつあるため、欧米のシステムをベースとして構築されている世界の仕組みが揺らぐ可能性があり、世界が混迷の度を増すのではという予想である。

この二つの見方が関係していることは明らかだろう。これまでは欧米の文明(これは宗教、文化、科学技術、生活様式、政治形態などを含む)が世界標準として世界で取り入れられてきた。これは別の見方をすると、欧米諸国が欧米文明を世界標準として他の国々に押し付けてきたといってもいいだろう。そしてそれを取り入れるのに成功した日本などの欧米以外の国は先進国として扱われ、いまだ欧米の文明を取り入れるに至っていない国々が発展途上国として扱われてきたわけである。

ところが中国のように共産主義+(中国型)資本主義のような従来の社会システムの枠組みの中に収まりきれない形態の国が出現し、米国と世界の覇を争そおうかというところまで発展してきた。これは従来の欧米が作り出してきた社会システムに対して、新しい社会システムの出現ということができる。

さらには今回のフランス、パリのテロ事件を引き起こしたイスラム原理主義に基づくイスラム国のような、欧米の文明の基本となっているキリスト教の原理に公然と歯向かう国が出てきた。イスラム国を含めた中東地域もアジアの一部と考えることができるから、これらの新しい現象を基本として最初に述べたようにアジアの国々が台頭してきたという見方をすることができる。

しかしそれは一方で、欧米の文明に基づく世界全体の社会システムを脅かすものであり、その結果として欧米の社会システムが世界全体を支配する力を失う可能性があることも意味している。このことから世界が混迷の時代に入るという二番目の予想が結論付けられることになる。

つまりこれは従来の欧米文明に対してアジア文明が再興しつつあるという見方と考えてもいいだろう。アジア文明が欧米文明と協調できるかもしくは欧米文明を凌駕するに至れば、それはアジアの時代が到来したという言い方につながることとなる。一方で、すでに強固な基礎を持っている欧米文明がアジア文明に凌駕されることはないだろう。しかし欧米文明と異なる原理のもとに作られているアジア文明の再興は、欧米文明に対する脅威となり欧米文明の基礎が揺るぐことになるとすれば、21世紀は混迷の時代だということになる。

もちろんいずれになるかは現時点ではわからない。いやもっというと、歴史の変化というのは最低で数百年の時間を要するから、21世紀中にその結果が明らかになるとは考えられないともいえる。そういう意味では、21世紀は混迷の時代であるという言い方のほうが、予想として当たっているのではないかと考えられる。

さてイスラム国などのイスラム過激派によるパリのテロ事件がやっとテレビの番組等で取り上げられるようになり、中東問題やイスラム諸国に関する専門家などが出演して今回のテロ事件を色々と論じ始めている。テロの数日後には各テレビ局ともテロがなかったかのように通常のバラエティ番組中心の番組編成に戻っていたことをこのブログで皮肉ったが、やっと1週間以上経ってこのテロ問題を扱うようになってきたのである。

このことはテロ発生直後は、この問題をどう扱っていいか各テレビ局ともわからなかったということを示している。これはテレビ局に限らず各国の首脳レベルでも同様であり、多くの各国首脳が日本の安倍首相も含めて「テロは許されない」というコメントを発するにとどまっていることからもわかる。

ただテレビ番組を見ていて気になったのは、やはり日本はそして自分たちは関係ないという考え方の人たちが多かったことである。せいぜい今後パリに観光に行くのが怖くなったとか、今後は海外旅行の際にはテロに気をつける必要があるとかという程度のコメントにとどまっていたことである。もっというと今回のパリのテロ事件に関しても、日本のテレビ局はバラエティ番組のネタの一つにしてしまっているのではという印象を受けた。

もっともこれは日本のテレビ局の問題にとどまらないのかもしれない。今回のテロ事件の後Facebookが写真のバックにフランスの国旗である三色旗を重ねるサービスを提供したため、多くの人が自分の顔などとフランスの国旗を重ねた写真を投稿した。これはパリのテロの犠牲になった人たちへの哀悼と、フランス国民に対する激励であるといわれている。もちろん基本的にはそのような形で自分の気持ちを表現すること自体は正しい行為である。

しかしフランスに対する哀悼と激励の気持ちを表現するときには、それは自分が捧げるものや自分が犠牲にするものと一緒にしてこそ本当の意味での哀悼と激励になるのではなかろうか。提供されているサービスを利用するだけで、簡単にフランスに対する哀悼と激励を表現できたそしてまたそれを行っている多くの人たちに自分が加わることができたと考えるのは、少々安易な行為ではないだろうか。