シンガポール通信-宮崎市定「中国史(上・下)」3:中国におけるルネッサンス

そして10世紀後半宋の成立と共に、中国は近世に入ると著者の宮崎氏は記述している。ヨーロッパでは、14世紀のイタリアを中心としたルネッサンスの始まりをもって、近世に入ったとしている。それでは中国においては、宋の成立と共に近世に入ったとするのはなぜか。それに対し宮崎氏の「中国史」では、宋の時代において中国においてルネッサンスがおこったからだとする。それをもって宋は近世国家なのだとしている。

宋がそれ以前の漢・唐などの国家と最も異なるのは、それ以前の国家が軍事国家・武力国家であったのに対し、経済の発展により経済国家・財政国家とでも言うものになったことによる。それ以前の統一国家は強力な軍を擁していたが、そのトップは常に軍人であったため軍が政府から独立した力を持ちやすくそれが国家の盛衰に関わる事が多かった。

それが宋においては軍のトップにも文官をおくことにより軍が力を持つ事を制限する政策がとられた。また経済の発展に伴いそれを政府がコントロールする官僚を必要とするが、それらの官僚は隋・唐の時代に始まった科挙制度を活用する事によって選抜した。いわば現在の日本と同様の政治システムがすでに宋の時代に完成していたのである。

もちろん政治システムだけがしっかりしていても、国の経済状況がそれに応じたものでなければ意味がない。しかしながら宋の場合は農業や鉱業がこの時代に急速に発達したために政治システムと実際の国の経済システムがうまくマッチしたものとなったのである。

農業では米に代表される穀物の生産性が大幅に向上し、「蘇湖熟れば天下足る」と言われるような状況になった。他の作物の生産性も向上し、従来は各地方が自給自足の形をとっていたのが、これらの生産物が隋・唐時代に作られた大運河をさらに整備する事によって中国各地でやり取りされるようになった。つまりそれまでは自給自足経済だったものが流通経済へと発展したのである。

また鉱業の発展が著しい。銅や鉄の鉱石の発掘が進み、銅は精錬された後に銅銭に使われ、鉄は精錬された後に武器や各種の工具・日用品として使われるようになった。またこれらの精錬に必要な石炭の生産量が大幅に増加した。これにより家庭用の燃料も薪から石炭にかわったといわれている。現代の私たちから見ても、古代の国家のありようとは全く異なり、近代の国家に近い形になってきていると思わざるをえない。

これに伴い技術も大幅な進歩を見せる。その最も顕著なものは出版の普及である。活字はそれ以前に発明されていたが、宋の時代に活字印刷が普及し大量の書物が出版された。南宋の時代には書店すら出現したという。これをヨーロッパにおけるグーテンベルクの印刷術の発明が1450年頃とされているのと比較すると、なんと中国はヨーロッパに比較して400年先んじているのである。

他にも造船技術も進歩し、1000トン以上の船の造船も可能となった。この技術は後の明の初期の鄭和の南海大遠征などにつながるものである。また船の遠洋航海に必須の羅針盤も使われ始めた。

このように宋の時代は政治システム、農業、鉱業、科学技術などの分野では確かにルネッサンスというべき状況が生じており、宋は近世国家にふさわしい国であるという事ができる。そしてその時点においてはヨーロッパに400年程度先んじていたのである。

それでは、宋の後継国家である明や清においてなぜこれらがそのまま順調に発展を続けヨーロッパに対する優位性を保持できなかったのだろうか。これは中国とヨーロッパの歴史を比較研究してきた歴史学者にとっては大いなる謎であり、研究テーマであり続けているのであろう。特に中国の科学技術の発展の歴史についてはジョゼフ・ニーダムが「中国の科学と文明」という大著にまとめている。

もちろん私自身もこれに対する明快な回答を持っている訳ではないが、一つ考えられるのが政治や科学技術と同時に文明を形作っている重要な要素である思想・哲学の存在であろう。宋においては、経済や科学技術の分野において近世にふさわしい状況になっていたのに対して、思想面においては儒教が社会の基礎となる思想となった。これは科挙制度が儒教の知識をもって選抜の基本となっていることによるのだろう。さらには儒教から朱子学がうまれ、朱子学はその後の中国の基本思想として清の頃まで強い影響力を持っていたという。

近代的な国家システム、農業や鉱業の進歩、そして科学技術の進歩に対して、それを支える思想が儒教とはいかにもアンバランスではないか。ヨーロッパでは14世紀に始まった芸術面におけるルネッサンスに少し遅れて、デカルトの「方法序説」(1637年)のような科学技術の発展の基礎となる思想が生まれている。つまり思想面におけるルネッサンスが生じたのである。

思想面におけるルネッサンスの不在。これこそが、中国が宋においてヨーロッパに先駆けてルネッサンスを成し遂げておきながら、それ以降停滞しヨーロッパに追い抜かれた大きな原因ではあるまいか。