シンガポール通信-宮崎市定「中国史(上・下)」2

中国では、皇帝が絶対権力を持つ漢帝国が滅んだ2世紀末をもって古代が終わり中世が始まったと、宮崎氏の「中国史」では書かれていると述べた。これはちょうど、ヨーロッパでは古代ローマ帝国が東西に分裂した後西ローマ帝国が滅亡した5世紀末をもって、古代が終了したとするのに対応している。ここで注目すべきは、古代が終わり中世に入る時期が中国に代表される東洋では、ヨーロッパに比較して300年ほど早くなっている事である。

それでは中世が終わり近世に入ったのは中国とヨーロッパではいつ頃になるのだろうか。宮崎氏の「中国史」では、中国で近世が始まったのは宋が中国を統一した10世紀後半であると書いてある。それに対してヨーロッパで中世が終わり近世が始まったのは、15世紀半ばの大航海時代の始まりの頃であると言うのが通説である。そしてそれはイタリアを中心としてルネッサンスが盛んになった時代でもある。ここでも中世から近世に移るのは、中国がヨーロッパに比較して400年〜500年早いのである。

古代・中世の定義が東洋とヨーロッパで異なっているならばともかく、実は中国とヨーロッパではほぼ似たような歴史の流れをたどっている。ということは、古代から中世への移り変わりや中世から近世への移り変わりの段階では、東洋が西洋に比較して歴史の進展が数世紀早い事になる。

これはこのブログでも以前に紹介したが、イアン・モリス著の「人類5万年人類の興亡:なぜ西洋が世界を支配しているのか」でも問題提起されていたテーマである。つまり中世のはじまりや近世の始まりの時代は、実は東洋がヨーロッパに比較して進んでいた時代でもあるのである。それがある時期に西洋の文明が東洋の文明を追い越し、現在では西洋の文明が世界を支配している。これがなぜなのか、そして今後はどうなるのかは大変興味深い問題であり、私自身も今後種々の本を読む過程を通して考えて行きたいと思っている。

宮崎氏の「中国史」は、古代・中世・近世・最近世の四つの時代区分のそれぞれにおいてヨーロッパと中国の様子を比較概観しようとしており、大変興味深い。しなしながらとはいっても中国の歴史を記述するのが本著の主目的であるから、なぜある時期まで中国がヨーロッパに対し進んでいたのが、なぜある時期にヨーロッパが中国を抜き去り現在では(ヨーロッパと米国を合わせた)西洋が世界を支配しているのかという問題には、直接は立ち入ってはいない

とは言いながら、そのような問題意識を持って宮崎市定「中国史」を読むと、大変興味深いのも事実である。さてもとのテーマに戻って、中世とはどのような時代としてこの本で扱われているのだろう。この本によると中世は分裂の時代、貴族制の時代、異民族侵入の時代と記されている。

皇帝が絶対権力を持って帝国を支配していた漢の時代が終わると、中国は各地の貴族がそれぞれに力を持ち始めそれらの貴族が並立する時代となった。中世が終わるまでに隋・唐という統一王朝も生まれているが、それらの王朝が中国全体を支配していた時期は長くはなくて、かつ常に異民族の侵入に悩まされた。また隋・唐王朝そのものも、漢王朝の流れを汲むというよりも軍閥が元となって成立したものであり、異民族化した王朝であった。

そして比較としてヨーロッパの歴史を見てみると、ヨーロッパにおいても極めて似た状況が中世に生じている事がわかる。西ローマ帝国が滅亡した遠因は、ゲルマン人などの異民族がローマ領内に侵入してきて各地に政権を樹立したためであり、最後にはそれらのうちの強力な国が西ローマ帝国を滅ぼしたのである。そしてこれ以降は各地に小国が群雄割拠する時代となり、ヨーロッパ全体を支配する国家が出現する事はなくそれは現在まで続いている。

もっとも中国とヨーロッパでは大きく異なる面もある。ヨーロッパでは、ギリシャ文化を引き継いだローマ帝国が地中海全体を統一するとともに、大帝国を支配する見事な統治システムを作り上げた。それがゲルマン民族などの文化的には未開の民族によりローマ帝国が滅ぼされたために、ローマ街道や水道などに代表されるローマ時代の見事な政治形態・社会インフラは忘れ去られてしまった。そのためにヨーロッパにおける中世は「暗黒の中世」などと呼ばれる事があるのだろう。

これに対して中国における中世は、「三国志」に描かれたように小国が覇を争って華やかに戦いを繰り広げた時代であったり、短期間とはいえ隋や唐による統一王朝が成立した時代は華やかな文化の成立した時代でもあり、「暗黒の中世」とは言えないであろう。その意味では確かにこの時代は中国が政治的にも文化的にもヨーロッパを凌駕していたと言っていいのではあるまいか。

(続く)