シンガポール通信−イスラム過激派によるテロは防げるか:シーア派とスンニ派

今日のネットに「イスラム国」のメンバーと見られる男が日本人二人を殺害すると警告するビデオ声明を発表したとの記事が載っている。イスラム過激派の矛先が日本にも向いて来た訳である。今回の件は中東諸国を来訪中の安倍首相がイスラム諸国との戦いのために中東諸国に2億ドルの援助を与えると発表した事と深く関係しているであろう。

こうなると私たちも対岸の火事と座視している事はできなくなった。はたして安倍首相がこのような結果が生まれる事をも考慮した上で、中東諸国に援助を与えるという発表を行ったか否かは重要な問題であると共に、私たち日本人もなぜイスラム過激派がテロ行為を行うのかについてもっと深い考察が必要であろう。ということで再度イスラム過激派によるテロの話を続けることとする。

イスラム教を語るとき、イスラム教徒の中に存在する二つの大きな集団であるシーア派スンニ派について語るのを避けて通る事は出来ない。テロを起こす過激集団に関しても、それがシーア派に属するのかスンニ派に属するのかは大きな問題である。一時期イスラム教内部の抗争に関してシーア派スンニ派について盛んに報道された事があったが、なぜか今回のテロ事件の報道の際は彼等がシーア派に属するのかスンニ派に属するのかという報道が私の見る限りでは全くなされていなかった。これが何故なのかは重要な問題なので考える必要があるがまずはシーア派スンニ派に関して。

シーア派スンニ派に関し、ネット上でたとえばWikipediaで調べてみてもどうも要領を得なくて、何がこれらの二つの派の本質的な違いなのかがわからない。結局このブログでも取り上げた井筒俊彦氏の書かれた「イスラーム文化」に立ち返って読んでみることにしたが、この著書にその違いが明確に書かれている事に驚かされた。

井筒俊彦イスラーム文化」によると、シーア派スンニ派イスラム教の創始者ムハンマドがアラーの教えを説いた前半約10年の教えと後半約10年の教えのいずれを信奉するかによって別れているのだという。そのうちシーア派は、ムハンマドが布教を行った前半10年の教えを信奉する集団である。この前半10年は、一介の商人であったムハンマドが故郷メッカにおいて突然の神啓示を受けて、イスラム教の布教を始めた時期に相当する。

この当時彼が説いたイスラム教の教えとは、イスラム教徒の一人一人が神アラーと向かい合いいかに生きるべきかを自分に問いかける事、いいかえると神の教えを守る事に関して一人一人が神と契約を交わすことに重要性がおかれていた。いわばイスラム教が持つ実存主義的側面が重要視された訳であって、そこには社会とか政治とかは入って来ない。あくまで個人個人が信仰の対象となるのである。そして個人個人が神と向き合う事の重要性が説かれると同時に、神の教えを守らなかった場合には最後の審判において地獄へ落とされる事が強調される。ある意味で最後の審判と地獄の恐怖を説くことによって、個人個人が神と向き合う事が求められるのである。

イスラム教のこの側面においては、イスラム教は他の宗教と極めて似た面を持っていることになる。例えば仏教における禅宗は、あくまでも個人が自我に目覚めそれを超えて悟りに至ることが求められる。キリスト教などにおいても、修行僧が自らに厳しい戒律と修行を課して神と一体化する体験を求めるのは、同じような考え方から生まれているのであろう。

一方のシーア派は、ムハンマドが後半10年に行った布教活動における彼の教えを信奉する。後半10年というのは、ムハンマドがメッカからメディナに移って布教活動を行った時期に相当する。この10年でももちろん一人一人が神の教えを守る事が求められるが、それと同時にそしてそれ以上に人と人のつながりが重要視される。つまり集団としてのイスラム教徒が神アラーと契約を交わすという側面が強くなる。

こうなるとイスラム教の教えが対象とするものは、集団や社会そして社会を制御するメカニズムとしての政治も含まれてくることになる。さらにそれに加えて、イスラム教の基本的な立場である聖と俗の一致もしくは政教一致の考え方が強調される。すなわち政治ではなくて宗教が社会や国家の基本を支えるメカニズムになるのである。これがスンニ派が信奉するイスラム教である。

国家が人々に守るべき法を強制するように、スンニ派の信奉するイスラム教ではイスラム法が法律の代わりとなって人々の日々の行動の隅々までをコントロールする。そしてこのような社会のあり方に絶対的な価値をおくのが本来のスンニ派である。

このように考えると、いずれの派がテロという過激な行動に走りやすいかがよくわかる。シーア派はある意味で社会とか政治には興味を示さないわけであるから、政教分離というキリスト教初め現在の世界の多くの宗教の基本的な立場と相容れやすい。したがってシーア派にとってイスラム教の教えを守る事と欧米の文化・科学技術を導入する事の間には矛盾は生じない。そしてまた、一人一人が神と向き合うという実存主義的な考え方は知識層に受け入れられやすいから、社会の知識層や支配層にシーア派が多いというのもうなずける話である。このことはシーア派はテロという過激な行動に走りにくい事を示しているのではないだろうか。

(続く)