シンガポール通信- フランスのテロ事件の真の原因は何だろうか:テロに反対だけではテロは防げない

さてそれでは、このようなアルカイダもしくはイスラム国によるテロ活動にどのように対処すべきなのだろうか。昨日や今日の新聞を見ると、今回のテロ事件やに関し多くの紙面が割かれている。しかしそれらの記事の大半は、単に事件の経緯を詳細に報道したものであったりアルカイダイスラム国に関する説明であったりというものである。今回のテロ事件に関しその原因を深く掘り下げた記事は皆無であったし、ましてや今後どう対処すべきかに関してもほとんど具体的な記事はなかった。

また11日にはオランド仏大統領の呼びかけに応じてメルケル独首相、キャメロン英首相、など約50人の国や地域の首相や閣僚が中心となってパリで100万人規模の行進が行われた。これはこれでテロに屈しないという西欧を中心とした自由世界の意思を示すという意味で大きなイベントである。

しかし、一般の人々に対するメッセージとしては、「テロは許されるべきではないので断固としてそれに立ち向かう」という、フランスのオランド大統領や米国のオバマ大統領による抽象的な言明以上のものは見いだす事は出来なかった。つまり「テロに気をつけましょう」という事以上のメッセージを、各国の首脳もマスメディアも一般の人々に提示できていないのである。これはいかにも無策ではあるまいか。

もっともそれはある意味で、この事件の根深さを物語っている。前回書いた事の延長として言えば、このテロ事件はある意味でイスラム教の価値観とキリスト教の価値観とが衝突している事を示す端的な例なのである。このような大きな問題に対してはわかりやすい対処法はないであろう。したがって私個人も何が解決策かと問われれば、明快な回答を与えられる訳ではない。しかし少なくともイスラム教的価値観とキリスト教的価値観の衝突という観点から見て、幾つか解決策らしきものを提示してみようと思う。もっともそれが短時間で問題を解決できる解かどうかは私自身確信があるわけではないが。

まず一つ考えなければならないのは、キリスト教に基礎をおく欧米社会は(そしてもちろん我々アジア社会も)もっとイスラム教・イスラム文化の価値観にレスペクトを払うべきであるということである。

前々回書いたように、言論の自由の立場から高い地位の人に対する風刺が認められているとはいっても限度がある。イスラム教徒の精神のすべてのよりどころであるイスラム教の教祖に対する風刺は、イスラム教徒全体を辱めるものである事を良く認識すべきである。海外のマスコミで天皇が風刺されたとしたら、私たち日本人が不愉快に感じたり怒りを感じたりする事から類推してみればよくわかる。また近頃北朝鮮のトップである金正恩の風刺映画に対してその配給元であるソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント(SPE)に対して北朝鮮政府がサイバー攻撃を仕掛けたり、上映映画館に対するテロを示唆するなどの敏感な反応を示したのも記憶に新しい。北朝鮮政府他このような反応をしたのも、金正恩が政治のトップであるだけではなく北朝鮮の国民の精神的拠り所になっているからであろう。したがって、宗教の教祖や人々の精神的な支柱となる人間に対する風刺には十分注意する必要がある。これがマスコミなどに対して求められる対処法であろう。

次にもっと高いレベルで考えてみると、欧米の知識人・政治家に求められるものとして、今回の事件がキリスト教イスラム教の価値観の衝突に基づいている事を認識するということが必要である。今回の事件に関しフランスのオランド大統領が「今回の事件は宗教とは無関係である」と発言したが、これは正しい発言とは言えない。この発言は表面的には「フランスに住む大多数のイスラム教徒はこの事件とは関係がない」という意味と解釈できる。しかし先にのべたように、今回の事件はキリスト教イスラム教の価値観の違いに基づいている訳であり、その意味では今回の事件はまさに宗教に関わる事件なのである。

どうも私たちアジア人から見ていると、欧米の多くの人々は無意識にではあろうが欧米の文化・価値観そして科学技術が世界で最も正しいものであり、他国もそれを受け入れるのが当たり前であるかのように思っているのではあるまいか。イスラム諸国は科学技術的に欧米に遅れをとった発達途上国であるかのような、そしてまた世界に対して石油を供給する事だけがイスラム諸国の役割であるかのような言動が、欧米の人々にしばしば見られるのではないだろうか。

このブログでも何度も書いたが、かってはイスラムは西欧を遥かにしのぐ文化と科学技術を誇っていた。そのような国々に対するレスペクトが必要ではあるまいか。また欧米の科学技術・文化をイスラムに持ち込む際には、イスラム教・イスラム文化とどのように整合を取りつつ、どのようにすれば摩擦をおこさずに持ち込めるかに対してもっと配慮すべきであろう。

(続く)