シンガポール通信−正月に思う

あけましておめでとうございます。

今年の正月は久しぶりに日本で迎えた。暑いシンガポールで迎える正月というのはなかなか正月という気分がわいてこないが、さすがに寒い日本で迎える正月は心身ともにぴりっと引き締まっていいものである。

もっとも昨年の暮れから今年の正月にかけては、京都も過去に例のないような大雪で、気軽に外出できるという状況ではなかった。そのため、いろいろと仕事が立て込んでいたこともあり、昨年の年末から今年の正月三が日にかけてはずっと家にこもって仕事というのが今年の私の正月の過ごし方であった。

テレビもほとんど見なかったし、新聞ももっぱらオンラインのニュースを読む程度で、新聞を買って読むという事はしなかった。暮れから正月にかけて家に籠っていた間に、世間との接点はもっぱらネットで見るニュース記事であった。

FacebookTwitterでは、多分暮れから正月にかけておめでとうなどのメッセージが飛び交っていたと思われるが、これらにも全くアクセスしなかった。FacebookTwitterなどの、日常生活における何気ない行動や考えなどの発信によって人と人をつなぐメディアは、一旦それにはまってしまうとなかなかそれから自分自身を切り離す事は困難である。

小学生や中学生がスマートホンで友達から送られて来るメッセージを常にチェックせずにはおれないという状況が良く話題になるが、それはある意味でよくわかる。第一私たち大人の多くもほとんど同様の生活を送っているではないか。しかしながら、一旦それから自分自身を切り離してみると、実はFacebookTwitterなどのSNSソーシャルネットワークサービス)が私たちの生活において持っている意味というのは本質的ではないことがわかる。

つまりSNSがなくても私たちの生活の本質的な部分には何の影響もないのである。それではFacebookTwitterが持っている意味はなんだろうという事になるが、結局の所日常の生活において人と人の何気ないつながりをネットの上で実現しているということであろう。いわばかって長屋の人達が毎日のように井戸端で集まって何気ない会話をしていた井戸端会議の持っていた意味と同じ意味を持っているのだろう。

井戸端会議に参加しなくても別に本質的な問題がある訳ではない。しかし、井戸端会議に参加することによって、世の中の出来事を知りそして人々がそれに対してどのように感じているかを知ることができる。そして近所の人達と日常的なつながりを保つことができる。長屋に住んでいる学者は井戸端会議から超然としていられるであろうが、一般の人達、特におかみさん達は井戸端会議に参加しておかないとのけ者にされたように感じるであろう。正にSNSは井戸端会議と同じような意味をもっているわけである。

もちろん私自身も井戸端会議に参加しないことによって村八分にされたくはないし、時には井戸端会議の話題で取り上げてもらいたいとも思う。したがってSNSにはしばしば参加する。しかし時にはSNSから自分自身を切り離してみることによって、SNSの持つ意味を考えたりすることも必要ではないだろうか。この正月はそのような機会を持つことができたというわけである。

シンガポール通信も、振り返ってみると2009年12月に始めたので既に5年経過したことになる。読み返してみると、世の中の出来事に対する感想や解説、私の身辺の出来事の報告やそれに対する私自身の考え、読んだ本の感想とそれに基づいた私自身の考えの発展などが主な記事の内容である。

私自身はコミュニケーション技術やコミュニケーションメディア関係の技術者・研究者なので、最近のコミュニケーション技術やコミュニケーションメディアに対する関心はそれなりに高く、それらに関するニュースに関する記述が記事全体のかなりの部分は占めていることは事実である。

しかし同時に私自身はそれを超えて、コミュニケーション技術やコミュニケーションメディアが社会とどのように関わり社会にどのような影響を与えているかという問題に関心を持ち続けて来た。それが先に述べたように、FacebookTwitterのようなSNS に関わりつつも、時にはそれから意識的に自分自身を切り離してみるという行動が生まれて来ているように思われる。しかしはたしてこれが時代の流れに乗っているのかどうかと問われると難しい所ではある。