シンガポール通信−井筒俊彦「イスラーム文化」3

イスラム教においては、聖と俗が一致しているいいかえると個々の人間の内面的な考え方・思想に基づいて社会の全てが進行するという宗教の理想的な形態が実現されているもしくは基本的な考え方とされている事を前回述べた。

それは他の宗教には見られないイスラム教独特の現象であって、大きな驚きであることも述べた。理想論としては正しいにしても、一体それで果たして社会が成り立つのだろうか。しかしともかくも現実にイスラム諸国が成立しているからには、これらの国では基本的にはこのようなメカニズムが働いていると認めざるを得ない。

しかしこれではその他の文化、特に聖と俗を明確に分離することによって科学技術の進歩が実現で来た西欧諸国の考え方とは全く相容れないではないか。現在のイスラム諸国でテロ組織とテロ活動が盛んなのは、従来のイスラム教を固持しようとするグループと、欧米に追いつくには欧米の科学技術や生活様式を取り入れる必要があり、そのためにはこれまでのイスラム教の教えを変えざるを得ないと考える人達の間の相克があるからではないだろうか。

私はこれまで、欧米の科学技術・文化の急速な流入イスラムの伝統的な文化を破壊することに反対するグループがテロ活動に走るのではないかと考えていたが、それ以上に深い考え方の違いがあるという事を本著によって教えられた。しかし例えばオバマ米国大統領に代表される欧米の国々のトップは、イスラム諸国のテロ集団によるテロ活動が起こるたびに弾劾メッセージを出しているが、彼等はこのような本質的な文化の断絶を知っているのだろうか。

私は、アルカイーダなどによるテロの対象が、単に欧米の科学技術・価値観の発祥元である欧米に向けられて行われるだけでなく、いやそれ以上にイスラム諸国の人達いわば隣人に対して行われる事に対して、これまで強い違和感を持っていた。もし単に欧米の科学技術・価値観がイスラム教の教えに反する事に対する反感からテロを行うのであれば、その矛先は欧米に向けるべきである。

それがなぜ、同じ文化に属する無実の人達に対してテロ行為が行われるのだろうという違和感である。しかしそれはこのイスラム教の基本的な立場を知ることによって理解できた。欧米の価値観とイスラムの価値観は本質的に相容れないのである。とするならば、欧米の科学技術・価値観を取り入れイスラム諸国を近代化しようとするイスラムの人々の行為は、「コーラン」に対する背徳行為なのである。これは、イスラム教の本来の教えを守ろうとする人々にとっては許しがたい反逆行為であろう。

コーランに対する背徳行為に対する罰は死刑である。イスラムを近代化しようとしている人達、もしくは日常生活で欧米の科学技術・価値観を取り入れようとしているイスラム諸国の多くの一般市民は、コーランに対する背徳行為を働いているとテロ集団は考えるのであろう。そして憎悪がわきおこるとそれは近い関係にある人達にこそ強い形で跳ね返るものである。これこそが、テロリスト達が同じイスラム文化に属する隣人をテロの対象とする理由なのであろう。

もっともわかったからといって、この問題の解決になる訳ではない。井筒俊彦氏もその事に関しては触れており、欧米の科学技術を取り入れようとするイスラム諸国にとってこの「コーラン」の基本的な教義と欧米のキリスト教に基づいた価値観の違いをどう解決するかが極めて深刻な問題である事を指摘している。

しかしこの講演が行われたのは先に述べたように昭和56年(1981年)であり30年以上前である。それ以降イスラム文化と欧米文化の衝突は、米国多発テロ、湾岸戦争、イラン戦争、そして最近のイスラム国と極めて大きな問題を引き起こしており鎮まる様子がない。残念ながら将来はどうなるのかに関しても現在は見通しが立たないという状態ではあるまいか。

さてイスラム教を論じるときスンニ派シーア派という名前を聞く事が多い。私もその名前は知っていた。しかしそれらの派の具体的な立場・考え方はこれまで全く知らなかった。この本を読んでその違いを始めて知った次第である。詳しいことは本著を読んでもらうのが一番良いのであるが、次にとりあえずスンニ派シーア派の違いを、私の出来る範囲でまとめて見よう。

(続く)