シンガポール通信−井筒俊彦「イスラーム文化」4

イスラム教はよく知られているように教祖ムハンマドによって設立された世界三大宗教の一つである。いずれの宗教も私たちの生き方・行動を律する倫理的な面と、私たちに自分の内面を深く見つめさせ本質的な自己にめざめさせる実存主義的な面があるが、イスラム教も同様にこの二つの面を持っている。

イスラム教は、商人であったムハンマドが40歳頃に神の啓示を受け、それを記録した「コーラン」を教典とする宗教である。ムハンマドが啓示を受けてから死去するまでの20年間がイスラム教の確立する過程であるが、それは彼がメッカにいた前半10年とメディナに移り住んだ後半10年でその教えに大きな違いがある。

前半10年においてムハンマドが説いた教義は、一人一人が神と向かい合い天国に行くか地獄に落とされるかが決定する世界の終わりと最終裁判の日に向けてどのように生きるべきかを考える事を求められるものであり、実存主義的な性格を持っている。そしてそれは同時に世界の終わりの日の暗いイメージを伴った、どちらかというと暗い面を持った宗教である。

それに対して、後半の10年にムハンマドメディナに移ってから説いたのは、一人一人が神と向き合うと同時にそれを基本として同じ宗教に属する人達の間の連携の重要性に関してである。そこでは終末の日は暗いイメージから、天国へ行く事を期待できる明るいイメージへと転換している。同時に同じ宗教に属する人達の間の連携を説くことによって、それは宗教にとどまらず政治活動へも活動範囲を広げて行くことになる。

さきほど、宗教には人々を生の本質と向き合わせいわば目覚めさせる(仏教的に言えば悟りに至らせる)実存主義的な側面と、人々に社会的な動物として個人としてまた集団の一員として倫理的な行動を求める倫理的な側面があると書いたが、ムハンマドが最初の10年に説いた教義が実存主義的な側面であって、後半の10年に説いたのが倫理的な側面であるといっていいだろう。

コーランの教えを人々の行動倫理としてまとめたものが、イスラム法であるが、私たちはイスラム教と言えば、日々の行動のすべてにわたってイスラム法によってがちがちに定められているきわめて厳しい行動倫理を持った宗教と考えがちである。イスラム教にも実存主義的側面があるという事(それはあたりまえといえばあたりまえであるが)を知ったのは本著によってである。

そして同時に知ったのが、イスラム教を代表する二つの派である、シーア派スンニ派の関係である。私は本著によって、シーア派イスラム教の実存主義的側面をイスラム教の本質であるとして信じる一派であり、スンニ派イスラム教の倫理的側面をその本質として信じる一派である事を知った。

スンニ派シーア派は同じイスラム教に属しながら、双方が互いに他方を激しく憎悪し、時には一方に属する人々が他方に属する人々を虐殺する事もあるというのは私たちの知る所である。(そしてそれは通常多数派であるスンニ派の人々が少数派であるシーア派の人々を虐殺するという結果となる。)近しい者ほど一旦憎悪が生じるとその憎悪がはげしくなるというのは、他の事柄においても良くある事であるが、イスラム教のスンニ派シーア派の憎悪関係は特別である。

このことについても、私たちは報道を通して二つの派の間に生じる事件は知っていても、それがなぜ生じるかに関してはほとんど知らないのが現状ではあるまいか。前回欧米文化とイスラム文化の根底にある本質的な相違について書いたが、このスンニ派シーア派の間の違いも極めて本質的なものである。

スンニ派は、コーランの教えを個々の人間が信じるべき教えを超えて、その教えを基本としてイスラム社会全体を構築しようとしてきた。いわゆる聖と俗の一体化である。そのために、コーランを基に人々が日常生活や仕事さらには政治においても守るべき基本的なルールとしてイスラム法を制定した。それは偉大な業績ではあるが、一歩間違えると人々がコーランを知らずに守るべきイスラム法だけを知っているという教条主義に陥る危険性もある。

これに対してシーア派は、イスラム法というものを認めない。あくまでも一人一人がコーランを自分で解釈し、それを基として自分自身に向かい合いいわゆる目覚めに至る事が大切であると考える。

これは同じコーランをある意味で逆の面から見ていることになる。しかしその両面がイスラム教の持つ側面である事を受け入れない人々にとっては、他の派は自分たちの派に対する敵対組織であると考えるのもさもありなんと考えられる。

本著の基となった井筒俊彦氏の講演から30年以上が経過したが、イスラム国の勃興などを考えると状況はこの講演の時よりも複雑化していると言える。しかも世界は30年前に比較すると、ネットワークにより飛躍的に狭くなると共に、種々の事柄が複雑に絡み合うようになってきている。井筒氏が存命であれば、どう対処するかに対して氏の意見をぜひとも聞きたいものである。