シンガポール通信−井筒俊彦「イスラーム文化」

少し前に、井筒俊彦氏による「意識と本質」を読んだ感想を書いた。この本はアジア諸国—それは日本、中国、イスラム諸国など広い意味でのアジア諸国を意味しているが−において、種々のモノの背後にある「本質」というものがどのように理解されているかを説明した著書である。

ヨーロッパの文化においては、プラトンの「イデア」に代表されるように全てのモノには本質が存在し付随しているというのは、疑う事の出来ない真実として理解されて来た。しかしアジア諸国においては事情が異なる。

その極端な例は仏教特に禅宗であって、禅宗では本質というものの存在を否定する。私たちは目に入るものを花や木として認識するが、禅宗においては「それは我々が教え込まれた知識によってそのように妄想しているだけで、本来花や木という区別は存在しない。そしてそれらのモノの本質も存在しない」と教える。

それに対してイスラム教では、「モノの本質は存在する。しかしそれは本来的に存在するのではない。神が時々刻々と世界を再創造して創造物に本質を与えているからこそ、我々は花とか木を認識できるのである」と考える。

実はこの2つの考え方は深い所で相通じるものがある。与えられた知識を前提としたモノの見方をするのではなく、本来あるがままのモノを見ようとせよ」という仏教の考えと「全てのモノの背後には神の創造力が働いている。人間の知識でモノを見るのではなく神の創造物としてモノをみよ」というイスラム教の考え方の2つの考え方は、神の存在を認めるか否かという部分を除けば同じだからである。もっとも神の存在を絶対的に認めるか絶対的に否定するかというのは極めて大きな違いではあるが。

さて井筒俊彦氏の「意識と本質」を読むことにより、イスラム文化そしてその背後にあるイスラム教に対する興味がわいて来た。同時にこれもこのブログで書いたが、世界の過去・現在そして未来を考える時にイスラム文化というのは無視する事の出来ないものであると考えられる。

イスラム教に基づいて作られたサラセン帝国(イスラム帝国)は、ヨーロッパ文明や中国文明に対抗する勢力として、最盛期にはアラビア半島ペルシャ、エジプト、北アフリカそしてイベリア半島をも含む大帝国であった。そしてそこではペルシャ絨毯などに代表される華麗な文化や数学・天文学を中心として科学技術が栄え、ヨーロッパ文明を圧倒していたのである。

ちょうど中国を中心とするアジアにおける中国文明が、かってはヨーロッパ文明を圧倒していたのと似た状況である。現在科学文明を代表として世界を征服していると考えていい西欧および欧米の文明は、実はかってはイスラム文明・中国文明の後塵を拝していたのである。

しかしながら時代が経つと共にイスラム文明・中国文明は停滞を始め、代わって西欧の文明がこれらを凌駕し始めた。現在このあたりを勉強中であるが、西欧文明がイスラム文明・アジア文明を凌駕し始めたのは、ヨーロッパ人が大西洋からアメリカ大陸へまた大西洋・インド洋を経てアジアへと進出を始めた15世紀中旬以降の事だと私は考えており、また歴史家の認識もそうではなかろうか。そして17〜18世紀の西欧の産業革命によって西欧文明はアジア文明・イスラム文明を遥かに引き離すに至った。

なぜ栄華を誇った中国文明イスラム文明が停滞を始めたのかは大変興味ある疑問であり、今後勉強して行きたいと考えている。中国を含めたアジア文明の停滞に関しては中国がとった海外貿易を禁じる海禁政策や日本がおこなった鎖国が大きな影響を与えているのではと思われる。

それではイスラム文明に関してはどうだろう。これを考えるためにはイスラム文明の歴史特にその背後にあるイスラム教の成り立ちや歴史を知る事が必要であろう。

と考えていた時に、同じ井筒俊彦氏の「イスラーム文化」を岩波文庫の一冊として本屋で見つけたので、これだという事で購入し早速読み始めた。これは井筒俊彦氏が昭和58年(1983年)に行ったイスラム文明に関する3回の公演を文章化して本にしたものである。

私は不勉強のため、井筒俊彦氏がイスラム学者としてそして思想家・哲学家として日本国内においてそしてまた国際的にどのように評価されているかに関しては全く知らない。従って彼の名をしったのは岩波文庫の「意識と本質」および「イスラーム文化」によってである。全く恥ずかしい限りであるが、彼の文章を読む限りでは深い考察に基づき極めて明快にかつやさしく哲学や思想を説く事の出来る人であると思う。特に「イスラーム文化」は一般の人達に向けて行った後援を文章化したものであり、大変平易な文章と内容であり、本来は難解と考えられるイスラム文化の成り立ち・歴史・特徴などを大変分かりやすく説いてある。

(続く)