シンガポール通信−父の思い出2

父は兵庫県の山奥の町で、大正9年に農家の末っ子として生まれた。姫路からバスで1時間ほどかかる山奥の町である。今でこそ中国自動車のインターチェンジが出来少しは便利になったが、かっては神戸・大阪に出るのも大変な田舎であった。農家の末っ子であったため農家をつぐ事は出来ず、サラリーマンとしての人生を歩んだ。

父は真面目・誠実で体を動かして仕事をするのが好きであったが、反面周りの人との調和や人の立場に立って物事を考える事が苦手であり、自分中心の考え方をする性格であった。人とのつきあいにもその性格が出て、人とのスマートな対応は苦手で常に本音一本やりでの人とのコミュニケーションしか出来ない性格であった。典型的な土と共に生きる農民の性格である。ロシアの田舎やアメリカ南部を描いた小説に出てくるような、典型的な農民の日本版とでも言ったら良いだろうか。

周りとの協調を求められるサラリーマンには父の性格は当初から向いていないというのは、私たち子どもにも小さい頃からわかった。父が勤めていた会社は繊維系の会社で絹を生産していた事もあり、日本海側を中心に絹の原材料となる蚕を養蚕し繭から絹糸を作る工場が日本海側を中心に全国にあった。当然であるがそうなると会社に勤務する人間は、主として本社で勤務する人達(つまりエリートサラリーマン)と地方勤務をする人達に分かれることになり、今から思えば父は数年おきに地方の工場を転々とする地方勤めの仕事を押し付けられていたようである。

そのためか、最後まで出世には縁のないサラリーマン生活であった。また私たち子供も、父の転勤に伴って2、3年おきに転校を余儀なくされた。当時はやっとなじんだ学校や友達にすぐ別れなければならないことや、その度に新しい学校や新しい環境に馴染まなければならないことは子どもだった私たちにも大きなストレスであった。

しかし今から思えばそのような生活は、新しい環境に短時間で馴染むスキルが身に付くのに役に立ったようである。私自身も自分の人生を振り返ってみると、大学を出て就職してからも5・6年おきに新しい部署への異動や、会社間の異動、大学への異動、そしてシンガポールへの異動と結構転々としている。それにも関わらず、それほど苦労する事もなく新しい環境に比較的短時間で馴染めたのは、この子ども時代の転校の経験が生きていると思っている。

さて父の事であるが、地方の工場を転々とする生活は父とそして同時に母にとっても大変であったかと思う。しかし同時に、地方の小都市であれば周囲との協調性に欠ける無骨な性格の父であっても、東京や大阪のような大都市に比較すると比較的スムースに周りの人達にも受け入れられたのではないだろうか。また本社では末端の社員に過ぎなくても、地方の工場勤めであればそれなりの権限も与えられた事であろう。

そういう意味では地方の工場廻りの父の会社人生は父にとってそれほど不幸なものではなかったのかもしれない。むしろ地方色豊かな日本海側の地方都市を転々としながら、地方地方で独自の文化や人間性に触れられる機会を父は楽しんだのかもしれない。

特に新潟県の村上氏にあった工場に勤務していた時は、絹の生産低下に伴い工場が最終的には閉鎖が決定したため、その閉鎖までの処理をまとめるという仕事を任された。たかが工場の閉鎖であるが、地方の小都市においては大きな事件であったようで、工場の閉鎖の事が新聞に取り上げられたり、父の事が記事になったこともあった。父にとってはこの頃が最もサラリーマンとしてやりがいのある時期だったのではあるまいか。

とは言いながら定年前の10年間ほどは大阪の本社に戻され本社勤めになったが、案の定回りとの関係などで苦労したようである。それでも父は一生懸命務めていたし、本人も会社の業務に貢献しているという自負があったので、出世できない事はそれなりに苦にしていたようである。しかし会社側に立ってみれば、父のような性格の人間をある程度以上の地位に上げると、外部との折衝も多くなるため使いにくかったのではと思う。

ある意味で会社は、父の仕事をそれなりに評価してくれていたのではあるまいか。それは定年後も70歳近くまで、子会社で父の雇用を続けてくれた事からもわかる。父はその事を理解していたのだろうか。今となっては聞くすべもないが。