シンガポール通信−父の思い出

7日(日曜)の早朝に父が死去した。94歳であった。今週は父の通夜・葬儀などでばたばたとしていたがやっと一段落し、一旦シンガポールに戻るため関空のラウンジで飛行機を待っている所である。

市井の一市民として生き、最後までメール・携帯電話等々のネットワーク時代の機器・サービスに無縁であった父のことは、早晩知り合いの人達にも忘れ去られるであろう。この機会に父の思い出を少し記す事を許して頂きたい。

体が頑強であった父は、高齢になってもつい数年前まで大変元気であった。しかし高齢になるに伴い認知症が発症し徐々に進行したため、2年ほど前から高齢者用の施設にお世話になることとなった。高齢者用施設に入ると、それまで欠かさず行っていた散歩などの運動を行う機会が減り、それと共に徐々に体力が衰えていったようである。

子どもは私を筆頭に三人兄弟であるが、独立に家庭を持つようになってからは、全員が父のところに集まるのは、年に1度あるかないかという程度の頻度であった。それが父の認知症の進行と共に定期的に見舞いに行き父の面倒を見る事が必要だろうという事になり、しばしば兄弟や兄弟の家族で会う機会が出てくるようになった。父の認知症のお陰というのは変な言い方であるが、それによって父の子ども兄弟が会う機会が増えたというのは奇妙な巡り合わせではある。

先週、高齢者用の施設から、父が肺炎になり芦屋の病院に入院したとの連絡があった。高齢に伴い体力が低下し、風邪などの簡単な病気が肺炎を引き起こすことが多いというのは、それまでにも聞いていた。今回の肺炎も、父が高齢化し衰弱しつつある事を示しているだろうという事は、容易に推察できた。そろそろ死期に近づいている印である。

認知症でしかも老衰で入院ということになると、四六時中とはいかないまでも出来る限り家族がそばにいて見守る必要がある。今後そのような見舞い体制をどう組むかを話し合うために、私たち兄弟が先週金曜に会うこととなった。私はシンガポールから帰国し、次男は徳島から芦屋に出て来て、三男は鎌倉から出て来て、今後の看護体制について話し合った。病院に聞いた所、父は高齢でもあり高齢者用の施設に戻るのは時間がかかり、しばらくは入院生活が続くだろうとの事である。

私は来年1月以降は日本に住む時間を増やし、少なくとも日本とシンガポールを半々の生活にする予定なので、月に1・2度の父の見舞いは可能になる。そのため、兄弟およびその家族が毎週父の見舞いに行くと共に、父の様子を見守ることにしようということになった。

その後芦屋の病院に入院している父を見舞いに行った。まだ意識はあるが、寝ている状態が多く時々意識が戻るという状態である。また、誰か知り合いがいるという意識はあるようで、手を握ると握り返して来るが、具体的に例えば長男であるとかの個人の識別は既に困難になっているようであった。とは言いながら病院の先生の説明によると脈はしっかりしており、体力が回復してくれば退院も可能かもしれないという事であった。

私たち兄弟は、数年前に比較すると衰弱と認知症が進んだ父の姿に心を痛めながらも、現状では特に生命には別状ないという先生の言葉に安心したものである。父の容態が急変したのは翌日の土曜の夕方である。私が普段シンガポールにいることもあって、父の容態などに関する連絡は次男に行くことになっていたが、父の容態が急変し意識が不明になったとの連絡が土曜の夕方にまず次男の所にあった。

次男・三男は日曜に徳島・鎌倉に帰る予定をしており、その時点では芦屋近辺にいたので、電話で相談の上、まず次男・三男が病院に行き父の付き添いをして、日曜朝には私が病院に行き付き添いをする事とした。ところが日曜の早朝に父に付き添っていた次男から連絡があり、脈が急速に弱まりたった今息を引き取ったとの事であった。

父の死は覚悟していた事ではあるが、頑強な体が自慢の父であっただけに、最低1年の闘病生活とそれに伴う家族の看病を覚悟していただけに、なんともあっけない最期であった。

(続く)