シンガポール通信−井筒俊彦「意識と本質」2

しばらくこの本の感想を書くのに時間が空いたが、再び始めて見よう。

この本に書かれている事は、タイトルからすると「意識とは何か」「本質とは何か」であると普通は予測される。確かにその通りなのであるが、むしろ著者の井筒俊彦氏が言いたいのは私たちが通常の意識で外界のモノを見る時のモノの見え方である。

私たちが外界を見る時、外界の風景は何の不思議もなく私たちの目を通して頭で理解される。花が咲き、木が茂り、道路を歩行者や自転車・自動車が動いて行く。しかしこれは私たちが目から入る情報を、ほとんど無意識に花・木・道路・歩行者・自転車・自動車などという対象に識別し分類しているからそう見えるに過ぎないと、著者の井筒俊彦氏は言う。

このような見え方の背後には、花・木・道路等々はどのようなものであるか、言い換えると花・木・道路等種々のモノの「本質」に関する情報を私たちが無意識のレベルで保持しているため、ほとんど無意識にそれに基づいた識別と分類が行われるのからなのである。

ところがそのような種々のモノの本質というのは、私たち一人一人が自分で考えだしたものではない。長い時間をかけて文化の中で徐々に決められ固まって来たものである。従って当然日本なら日本文化に独特の分類法と分類されたそれぞれのモノの本質が決まっている。そしてそれは当然日本語という私たちを取り巻く世界を表現するための言語とも密接に繋がっている。
という事は、それは与えられたものであって自分が自らそのような分類を作り上げたというものではない。私たちが両親やから教えられたり、学校の教育を通して身につけて来たもの、いわば文化的な縛りであるといってもいい。したがって何らかのきっかけでそのような縛りが弱くなると、私たちが普段全く何の不自然さも感じずに見ている外界が突然奇妙な悪夢のような世界に見え始める。

それはちょうどサルトルが、「嘔吐」の中で主人公に次のような経験を告白させていることに相当している。「マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地に突き刺さっていた....たった独りで私は全く生のままのその黒々と節くれ立った恐ろしい塊に面と向かい合って座っていた。」

最近ではサルトルはすっかり忘れ去られた文学者・哲学者のようある。しかし私の大学時代は実存主義のブームの時代であって、実存主義の旗手と目されていたサルトルは、知識人や学生達のヒーローであった。文学好きが集まるとすぐにサルトルが描くこの情景が話題になり、その解釈や私たちがそのような経験をしたか否かなど、ケンケンガクガクの議論となったものである。

私たちは普段の日常生活でこのような経験をする事はない。しかしそれは、上に述べたように世界を各種のモノに分類しそれぞれのモノにその本質が付随しているという考え方が教育などを通して私たちのモノの見方としてすっかり身に付き、ほとんど無意識レベルで私たちの外界のモノに対する見方を決定しているからである。

だから時とした私たちの日常意識が弱くなった場合に、このような事がおこる。それは例えば夢の世界である。夢の世界では現実世界では存在しそうもないモノやおこりそうもない事がごく普通に存在するではないか。そしてまた風邪などで高熱にうなされている時、私たちにとって外界は普段とは異なった一種気味の悪い見え方をするではないか。

そして私たちのモノの見方や捉え方が、それがまた文化の影響を受けるという事は、海外旅行などをする時にしばしばぶつかる状況である。多くの人は海外旅行を始めた頃、いろいろととまどったり途方にくれた事があるだろう。例えば電車の切符の買い方である。日本は通常お金を入れてから行き先を指定するボタンを押す。ところが海外ではたいがい行き先を指定しておいてから、指定されたお金を挿入する。

たったこれだけの違いなのになかなか切符が買えなくて途方に暮れた経験をした人は多いのではないだろうか。お金を先に入れるか、行き先を先に指定するか、これは順番が異なっているだけで全く同じ手順を踏んでいる訳である。ところが私たちは日本におけるお金を先に入れるという手順に強くならされているため、それが当然の事のように思い込み、それとは異なる手順にであったとき、それが理解できなくて途方に暮れてしまうのである。

この途方に暮れるという経験は、先に述べたサルトルの「嘔吐」の主人公の体験と同じ経験なのである。その意味で私たちも日常と異なった状況下に置かれた場合実存主義的経験をするわけである。

(続く)