シンガポール通信−シンガポールのアート事情2:シンガポールのアートブームは本物か?

前回書いたシンガポールのアートフェアであるアートステージシンガポールは毎年開催されているが、来場者で押すな押すなの盛況である。これだけ見ていると、シンガポールにはアートブームが訪れているという見方も出来る。それでは本当にシンガポールにはアートが浸透し、アートブームが訪れているのだろうか。これに対してはイエスとノーの二つの答えが可能である。それぞれに関して考えてみよう。

まずイエスの面から考えてみよう。イエスという理由の一つは、シンガポールで行われる各種のアートショウで展示されているアートの質の向上が著しい事である。4、5年前まではシンガポールの美術館で展示されるアートの質は高くなかった。シンガポール政府のローカルなアーティストを優遇する政策のせいで(この政策自体は間違っている訳ではないが)、美術館で展示されているアートはローカル色の強い物が多かった。

ローカル色が強い事その事は別に悪い事ではない。しかしいいアート作品に求められる精神性に欠けるアート作品が多かった。その点欧米の特にヨーロッパのアートは、長年のアートの歴史に基づいてアーティスト同士が切磋琢磨するからであろうか、深い精神性を備えたものでないと人々には受け入れられない。このような環境が欠けていたからだろうか、シンガポールの美術館で見かけるローカルなアートは、絵心のある人があまり考えずに描いただけのアートのように見える場合が多かったのである。

特にシンガポールは中華系の人が多いからだろうか、展示してあるアートの多くが伝統的な中国形式の水墨画などである事が多かった。それはいかにも水墨画の伝統に則って描いただけの、水墨画水墨画しているアートであった。見ている方もすぐに飽きて来たものであった。

ところがここ数年で状況が変わりつつある。アートの質が向上して来ているのである。どこがどうと説明を求められても困るのであるが、確かに質が向上している事がわかるのである。それは決して欧米のアートの書き方をまねようとしているのではない。アジアの伝統文化に基づいた描き方をしながら、そこに精神性が宿るようになって来ていると感じられるのである。

その理由の一つは、シンガポールで欧米のアートなどの展示が行われる機会が増えたからではなかろうか。欧米の精神性を持ったアートに触発されて、ローカルなアーティストもアートが精神性を備えている事が必要と感じ始め、自分たちの伝統や歴史に目をやりそこから現在の自分が置かれた状況を見て、そしてそれに基づいて自分の心の叫びとでもいったものを表現しようとし始めているのである。

もともとアジアは長い伝統と文化を備えた地域であり、人々の心の奥底にはそのような長年の伝統と文化が蓄積している。それに基づいて自分の心の叫びを表現しようとすれば、優れたアートが作り出される可能性は大きい。それがおこりつつあるのではなかろうかというのがシンガポールのアートブームが本物ではないかと感じる一つの理由である。

もう一つは伝統的なアートに加えてビデオアートなどの新しいアートを買い求めるコレクターがシンガポールおよびその周辺の国々に出始めた事である。これを実感したのは私のパートナーの土佐尚子のビデオ作品が売れ始めたことによる。

ビデオアートというのは新しいアート領域であるメディアアートの中でも最も古く1960年頃から存在しているものである。しかしながら長年それは美術館での展示の対象に留まっていた。美術館が自分の所のコレクションとして買い求めることもあまりなかったのである。一例を挙げると、現代美術の世界でよく知られているニューヨークの近代美術館(MOMA: Museum of Modern Art)でもビデオアートをコレクションの対象にし始めたのはつい数年前からである。

大体ビデオアートというのはディジタル化してあるから、DVDにさらに最近はメモリチップに容易に納めることができる。絵画の場合は購入すれば実際のモノとして手元に置いたり壁に飾ったりすることができる。そして同じ物は原則として二つとない。

ところがビデオアートを購入するという事はメモリチップを買うのと同等の行為になる可能性があるのである。さらにはディジタルデータはコピーが容易であるから、基本的にはビデオアートは幾らでもコピーが出来ることになる。これは従来のアートの概念からすると大変異なるアートなのである。

似た性格の伝統アートとしては版画があるだろう。版画も基本的にはコピーが可能であり、何枚でもほぼ同じものを作ることができる。コピーを防ぐために版画の場合はコピーして作った作品の数をエディションという形で制限しておく。例えば10枚だけ刷ってそれ以上は刷らなことにより作品の価値を上げるのである。

原則的にはビデオアートの場合も作品のアートとしての価値を保つために同じ事を行っている。

(続く)