シンガポール通信−ジャレド・ダイヤモンド「昨日までの世界」3

それでは、まだ国家が存在しなかった太古の昔の社会にすんでいた人々の生活と、国家が科学技術の成果としての豊かな生活とそしてそれに伴う種々の制約を与える社会に生きている私たちの生活において、何が共通点で何が相違点だろうか。

この著書で著者のジャレド・ダイヤモンドは種々の観点からこのような比較を行っている。興味深いのは総じて、太古の昔の人々が持っていた生活様式の大半が失われているという観点から記述が行われている事である。これは欧米の人々にとっては納得いく内容であるが、欧米人以外の私たち、特に私たち東洋人からすると違和感がある記述も多く見られる。

それは私たち東洋人の目から見た場合、太古の時代の人達の生活様式・行動様式のかなりの部分で、少なくとも欧米人に比較すると多くの部分で、私たち東洋人は太古の時代の人々と共通する生活様式・行動様式を保持しているからである。そして実は欧米人の生活様式・行動も近年大きな変化が出て来ているのである。

いくつか例をあげてみよう。一つの例として、ニューギニアの現地人がひまがあると集まって事細かに自分たちの周囲でおこった事をながながとしゃべり合っているという事実を著者は述べている。それは、自分が昨日食べた食物であったり、自分の健康の事であったり、天候の事であったり、隣村から嫁にやって来た女性の毎日の行動の細部にわたることであったりする。

確かに欧米人からすると、日常の事細かな事を微に入り細に入り情報交換をするというのは、彼等のビジネス会話や論理的な会話を基本とするコミュニケーションからすると奇妙に見えるのであろう。しかしながらこのような行為は私たち東洋人にとってはごくごく当たり前の行為ではなかろうか。かっては日本中の人達が、いわゆる井戸端会議と言われるこのような会話で時間をつぶしていたのである。現在でも地方に行くと、特に高齢者などはほとんどの時間をこのような会話に使っているといっていいであろう。

そしてである、ここが重要なのであるが、気がついてみるとこのような行為がスマートフォンの普及によって、またFacebookTwitterが多くの人にコミュニケーションツールとして使われるようになって、地方ではなく都市に住む人達、しかも若者がこのようなコミュニケーション行為に毎日の多くの時間を費やすようになって来ているではないか。

いわゆる「ながらスマホ」という言葉に代表されるように、電車やバスを待っている間、乗っている間、そして歩いている間もスマホから片時も目を離さない人達の何と多い事か。シンガポールのMRT(地下鉄)に乗ってみるとわかるが、9割以上の乗客が自分のスマホの画面に釘付けになっている。まだ日本だと新聞や雑誌を読んでいる人が一車両に3、4人はいるものであるが、シンガポールではほぼ皆無である。

もちろん現地のシンガポール人の大半はそのような行為をしているのであるが、興味深いのはシンガポールに住んでいるのか観光客なのかは問わず、MRTの中で見かける欧米人の大半も同様の行為をしている事である。これは何を意味しているのだろうか。

実はこのような行為を見る事によって欧米人の行為がアジア人化しているという私の考えが生まれた。そしてそれが4月に出版した「アジア化する世界」の基本的な論旨を構成している。これだけだと多くの人が既にそれを指摘していると思われるが、それではつまらないので、ではなぜそうなりつつあるのかという点を追求して論理を発展させたのが、「アジア化する世界」の内容である。興味のある方はぜひこの本を読んで頂ければいいと思う。

ともかくも重要な事は、毎日の多くの時間を自分の身の回りの事を微に入り細に入り友人などと語り合うという太古の昔の社会に住んでいた人達の生活様式が、東洋ではかなり多くの人に保持され手来た事であり、そして現在再び欧米の人たちの間にもそのような行為が広がりつつあるという事である。

しかしそれをジャレド・ダイヤモンドは奇異の目で見ているようである。ということは彼はそのような行為がまだ一般化しない世代、古い世代に属しているという事を示している。最近の欧米の若者であれば、ここの部分の記述を読むと、「何だ、昔の人達も自分たちと同じ事をしていたのか」と思うだろう。実はそうではなくて現在の若者達の行為が先祖帰りをしつつあるのである。

それにしてもFacebookTwitterというのは言ってみれば単純なアプリであるが、毎日の多くの時間を身の回りの些細な事に関する会話をして過ごすという太古の昔の人々の行為を現在に蘇らせて大流行させたという意味では、偉大な発明であるといっていいであろう。ITはノーベル賞の対象にはならないけれども、その影響力の大きさという意味では、ノーベル賞級の発明と言っていいだろう。

またそのようなアプリがそのような行為に慣れている東洋人の間で生まれずに、欧米人の間で生まれたというのは悔しいと同時に極めて興味深い事実ではないか。これがなぜかを説明している人がいるのだろうか。