シンガポール通信−ジャレド・ダイヤモンド「昨日までの世界」

ジャレド・ダイヤモンドは1937年ボストン生まれの人類学者で、現在はUCLA地理学教授である。長年ニューギニアを中心に、太古の昔から変わらぬ暮らしを続けて来ている原住民の生活を彼らと一緒に暮らしながら観察・研究して来た。

普通の大学教授ならば、研究の結果を専門の学会に発表したり論文を執筆したりして一生を送るのであるが、彼のこれまでの経歴はそのような通常の研究者の殻を破ったものである。彼はある日ニューギニアの原住民の「なぜ自分たちが白人に支配されているのか」という質問によって、世界がなぜ現在欧米の文明によって支配されており、ニューギニアの人々そしてニューギニアの文明が世界を支配するという逆の事態にならなかったのかという事に興味をもち始める。

そして研究の場合には通常は使われない大胆な仮説と推論によって書き上げた「銃・鉄・病原菌」が全世界的なベストセラーとなって、世界中で知られるようになった。「銃・鉄・病原菌」では、彼の豊富な歴史学的・人類学的な知識の基づき、「文明は緯度がほぼ同じで東西に障害がなく長く広がる大陸においては、同じような形で東西に伝搬しやすいため、そのような地形をした大陸上で発展しやすい」という論旨にそって議論を展開している。

緯度がほぼ同じで東西に長い地形を持った大陸というのは、アジアからヨーロッパに広がるユーラシア大陸がそれにあたる。そして、ユーラシア大陸のほぼ中央部分にあたる肥沃三日月地帯と呼ばれるチグリス河・ユーフラテス河に挟まれた地域に紀元前7000年頃に生じたメソポタミア文明が、その後ヨーロッパに伝わり現在の欧米文明の基礎となったのである。

一方で南北アメリカ大陸でも古くから文明が栄えた。特に南アメリカでは、紀元前7000頃とメソポタミア文明と同じ時期にアンデス文明が生じている。しかしながら、アメリカ大陸の南北に長いという特徴により、例えば農作物や家畜などの文化は中部アメリカを経て北アメリカへは緯度が違うのでそのままの形では伝わらない。さらには途中にパナマ地帯という障害がある事が、南アメリカで生じた文明が中部アメリカ・北アメリカへ伝搬したりそれらの地域の文明と交わるという、文明の発展にとって欠かせない事態が生じるのを妨げたのである。

そしてそのために、文明としては高い水準にあった南アメリカのインカ文明や中部アメリカのマヤ文明アステカ文明は、16世紀のスペイン人の侵略によってもろくも滅び去った。その時ヨーロッパ文明がアメリカ大陸に持ち込み、アメリカ大陸の先住文明を滅ぼすに至った原因が、鉄の鎧で武装し銃を装備した軍隊であり、またアメリカ大陸の先住民が免疫を持っていなかった天然痘などの病気であった。これが書名の「銃・鉄・病原菌」の由来である。

このように、人類がアフリカを出て世界中に散らばった一万数千年前から現在までの歴史を俯瞰的な視点から概説するという著書がそれまでなかったために、「銃・鉄・病原菌」は世界中の多くの一般読書人に広く受け入れられたのである。私自身もこの本を一気に週末に読了した事を覚えている。

その後もジャレド・ダイヤモンドは、世界の各地で文明が興りそして崩壊して行った例をとりあげながら、文明が崩壊するのはどのような状況の場合に生じるのかを論じた「文明崩壊」などの興味深い著書を出版している。ジャレド・ダイヤモンドのいずれの一般書も、多くの研究者にありがちな自分の研究分野を深く掘り下げる事に集中し、それを専門家が集まる学会や論文誌で発表することでよしとするという態度の対極にある態度に基づいて執筆されたものである。

数千年・数万年にわたる人類の歴史を見渡してそこに人類の文明の発展のある種の法則を見いだそうという彼の態度は人類学や歴史学の専門外の一般の私も含め人々にとって、いわゆる象牙の塔に籠る研究者のイメージを覆してくれ、読んでいて爽快な気分になる。

さて同じ著者による「昨日までの世界」はどうだろうか。基本的にはこの著書も、これまでのジャレド・ダイヤモンドの人類の長い歴史のなかからある種の法則を見いだそうという同じ態度の基に記述されている。この著書では人類が世界各地に散らばり定住生活を始め文明を発達させ始めた太古の昔の私たち人類の生活と、最先端の科学技術の利点を享受しながら生活している現在の私たちの生活を比較し、何が変り何が変っていないのかを明らかにしようという基本的な態度の上に記述されている。

そしてもし変わっているものがあれば、それはなぜ変わって行ったのかを人類学的視点から明らかにしようとしている。さらに私たちの生活が変わってきた結果として、現在の私たちの生活における利点と欠点を並べ上げ、かっての生活で持っていたが現在は失っている利点を見いだそうという考え方に基づいて記述されている。

これは私自身も好きな考え方、基本的態度である。多くの歴史書が出版されているが、その大半は過去の歴史を過去の出来事としてとらえその経緯を描いているに過ぎない。もっとも例えば、戦国時代の織田信長豊臣秀吉などの武将の戦いぶりや部下の掌握法などを現在のビジネスマンに当てはめ、リーダーシップをいかに発揮して部下を指導するかなどを書いたビジネス書はそこそこ出版されているようであるが、大半は著者のごく狭い知識の範囲で強引に書かれたとしか思えないような内容の薄い本である事が多いのではないか。