シンガポール通信−朝日新聞の誤報はなぜ生じたか? 2

朝日新聞慰安婦強制連行記事の取り消しと社長の謝罪と同時に、朝日新聞はもう一つ記事の取り消しとそれに伴う社長の謝罪を行っている。それは東北大震災に伴う福島の原発の事故直後の状況について、福島第一原子力発電所吉田昌郎所長が事故後の調査に応じて答えた結果が記されている、いわゆる「吉田調書」に関するものである。

朝日新聞は、当時はまだ公開されていない吉田調書を独自に入手し、そこに記されている吉田所長の答弁を読解した結果に基づき、「事故の際、吉田所長の命令に違反して所員の大半が福島第2原発に非難した」とする報道を行った。

福島第一原発の事故に伴い、そこに勤務していた所員が自らの命の危険も顧みず事故の沈静化にあたったことは、それまで海外のメディアが日本人の美点として大きく報道して来ていたことである。それは、東北大震災の被害者が未曾有の大天災を経験した直後にも、人間としての尊厳を失わず、配給を長時間辛抱強く待ったり被害者同士支え合って生きているなどの事実が、海外メディアから日本人の美点として大きく報道されたのと並行して報道されたものである。

その結果として、海外からの日本人の考え方・行動様式に対する評価が大きく高まったことは事実である。私もシンガポールに住んでいて多くの市民や私が勤務している大学の教員・学生などから賞賛のメッセージをもらい誇らしく思ったものである。
それが一転してこの記事が報道されることにより、海外では「パニックになった作業員達が逃走した」などと報道され、せっかく高まった日本に対する評価が下落するという結果につながった。特に韓国では、これに先立ち旅客船セウォル号が沈没した際に船員が旅客を放置して我先にと船から退避した事件に対して、船員の態度に対する大きな非難が寄せられていた。これに対しても、東北大震災や福島原発の際の日本人の行動様式を例にとって、そのような事態は日本では生じないだろうという意見が韓国国内でもみられたものである。ところがこの朝日新聞誤報の問題が出たため、「日本でも責任ある立場の人間が同じような行動をとっているではないか」という日本に対する反感をあおるような報道がされることにつながった。
慰安婦強制連行に関する記事は、吉田清治という朝日新聞が独自に入手した証人の証言を信じるか否か(朝日新聞は意図的か否かは別として信用した訳であるが)が記事を書く上での大きな判断となったのであるが、福島第一原発の吉田調書に関しては、記事の元ネタとなったのは書き留められた文書であり、それを読んで朝日新聞の記者が吉田所長の命令に背いて所員が第二原発に非難したと解釈したなら、他の誰が読んでもそのように解釈するはずである。

ところが他の新聞などのメディアが非難するのは、吉田調書を公平な立場から読んで行くとそのような解釈は出て来ないことにある。とするとそれは、吉田調書を読んだ記者が前提として「所員が逃げ出した」という記事を書きたいという願望があり、それに基づいて調書の都合のいい部分だけを拾い読みして記事にしたということになる。朝日新聞の記者ともあろう者が、「所員が所長の命令に反して逃げ出した」というスクープ記事をものにしたいために、吉田調書を歪曲して解釈していたことになる。これは罪が大きいだろう。

さてこのような朝日新聞の誤解に基づく誤った記事の掲載の取り消しとそれに伴う社長の謝罪が、慰安婦強制連行、福島第一原発などの重大な事件に伴って生じた訳であるが、これはなぜ生じたのだろうという疑問がわいて来る。朝日新聞は時に「左傾化している」などの非難も受けるが、同時に「日本の良心」といった日本を代表する知性に基づく記事を各新聞であるとの評価も受けて来た。その朝日新聞に何が生じているのだろう。

これに関しては謝罪会見で朝日新聞の社長が弁明しているように、個々の記者が自分の専門領域にこもるいわゆる「たこ壷現象」が生じているというのが最も考えられる理由であろう。

かっては新聞記者には広い教養と知性が求められ、それに基づいて高い立場から公平な記事そして時の権力に対しては辛辣な記事を書くというのが記者の理想であったといえるであろう。そしてその理想に最も近かったのが朝日新聞であったのではないだろうか。

ところが時と共に世の中で起こる出来事の範囲が拡大すると共に、それをカバーするために記者の専門性が要求されるようになって来たのではないか。つまり科学技術の分野で良く言われるような自分の専門とする狭い世界に対してしか理解力を持たない「専門馬鹿」が生まれてきたという訳である。特に新聞業界においては、高いステータスを持つ朝日新聞のような新聞社には有名大学を優秀な成績で卒業した学生しか就職できないであろう。そして有名大学を優秀な成績で卒業した学生こそは、専門馬鹿にもっともなりやすい候補者なのである。

(続く)