シンガポール通信−「iPS世界初の移植成功」は快挙か?

今朝の新聞に、理化学研究所がiPS細胞の移植に成功したとの記事が載っている。より具体的には、目の難病患者を対象として、患者の皮膚からiPS細胞を使って網膜細胞に育て移植手術を行い、成功したというニュースである。iPS細胞の作成は理研高橋政代プロジェクトリーダーが行い、手術は先端医療振興財団先端医療センター病院の栗本康夫眼科統括部長が行ったとのことである。

iPS細胞を実際の医療応用に用いたのは、この手術が世界初であると新聞は報じている。世界的な快挙として、各新聞とも第一面のトップ記事として大きく扱っている。たしかに医療応用が期待されているiPS細胞を用いた移植手術に、実際に世界に先駆けて成功したとなると快挙であろう。各新聞がトップ記事として扱うのは無理もない。

しかし新聞記事を詳しく読んでみると、少し疑問がわいて来て、これは本当に快挙として喜んでいいのだろうかという気持ちになって来る。それは、移植の目的について同病院の平田結喜病院長が「iPS細胞の安全性を確認するのが主目的」と言ったという記述があるからである。それを受けて実際に手術を担当した栗本部長は、「1年経過してがん化しなければ成功だ」と述べている。

本来目の難病患者の手術を行うのは患者の視力の回復を目的として行われるはずであるが、これも新聞によると、視力の大幅な改善が見込める訳ではなくて、改善するとしても移植から1〜2年経過しないと判断できそうにないとのことである。

ということは今回の移植手術は、患者の目の難病を治す事を目的として行われたというより、人の細胞から作られたiPS細胞を本人に移植しても問題がないかどうかを確かめる事が第一目的だったということになる。つまり新しい医療の方法の人体実験だったということになる。

となると世界初の快挙という記事の明るい調子に、少しかげりが出て来る。そしてそのつもりで読むと、患者は加齢と共に症状が進行する「加齢黄斑変性」という病気に悩む70台で女性とあるので、ますますそのかげりが大きくなって来る。

ここまで読むと、なるほどiPS細胞の移植に伴う危険性を確かめるための人体実験を行うのが主目的だったのか、そしてそのために高齢の患者を移植手術の対象として選んだのかという気持ちになって来るではないか。

もちろん医療において新しい薬や新しい手術の方法が確立されるまでには、多くの実験が必要であることは当然である。そしてそのためには、実際に人間に対して薬や手術を適用する人体実験を行う事を避けるわけにはいかないだろう。
もちろんその際には、最も危険の少ない方法を選ぶ必要がある。それが例えば高齢者を対象として人体実験を行う事であろう。また高齢者であっても、当然患者本人にその薬なり手術の持つ意味は説明して、本人の了解をえているわけであろう。患者の立場からしても、放っておいたら症状が悪化するという病気の場合には、ある程度の危険性があるのは承知の上で、藁にもすがる思いで新しい薬や手術を自分の体を使って行う事に同意することは、よく理解できる。

したがって、今回のニュースを人の細胞から作成したiPS細胞を本人に移植しても無害であることを確かめるための実験であるとして理解することはできる。そしてまたその実験が、iPS細胞の医療応用を進める上でプロセスは避けて通れないプロセスである事も良く理解できる。

それではなぜこの記事を読んで釈然としないのだろう。それは多分二つの理由によるものであろう。

一つはこのニュースを報じるマスコミの記事の書き方である。記事を注意深く読んでいると、これがiPS細胞を用いた再生医療の実用化に向けた第一歩に過ぎない事が理解できるし、まだまだ危険も多く実用化までは道のりが遠いことも理解できる。しかしながら「iPS世界初の移植」という見出しからは、一般の人々はもうiPS細胞が実際の医療に利用できる段階まで来たかのように思ってしまうではないか。せめて「移植実験に成功」とでも抑えた見出しにすべきではなかったかと思われる。

つまり新聞は、最近まで大騒ぎであったSTEP細胞の場合と同じような報道の仕方をしているのである。STEP細胞の場合も、他研究機関における再現実験が成功して始めてSTEP細胞作成成功が確実と言えるのに、小保方氏および理研の作成成功という報道発表に踊らされて、確実にSTEP細胞が存在するかのような取り扱いをし、それがこうじて小保方氏のノーベル賞受賞確実などの記事に迄発展してしまったのではないか。

STEP細胞の場合も最初にもっと慎重な記事の取り扱いをしていればここまで大きな騒ぎにならなかったと思われる。ところが今回のiPS細胞の世界初の移植成功でも、前回と同様に報道の仕方として適切ではない同じ過ちを犯しているというのが私の意見である。

もう一つ釈然としないのが、今回の成果の発信元が再び理研再生医療センターであったということである。再生医療センターはすでにSTEP細胞の作成成功の成果発表を勇み足気味に行い、それが大騒ぎになり渦中にあった笹井氏が自殺するという事態にまで発展した。

もちろん同じ組織から相次いで大きな成果が発表されるということ事態は喜ぶべきことではあろうが、反面前回の失点をカバーするために成果発表を急ぎ過ぎたことはないだろうかという危惧も生まれる。

もちろん科学技術の世界は他の研究者、他の研究機関との熾烈な競争の行われている世界であり、他人より少しでも早く成果を発表したいという気持ちは研究者は誰でも持っている。それがSTEP細胞騒ぎに発展した訳であるが、だからこそ成果発表を管理する立場の理研に対しては、今回の成果発表は慎重に行っているのでしょうね、勇み足はしていないでしょうねと確かめたい気持ちになるのは、私だけではあるまい。

それだけに今回のニュースに対するiPS細胞の生みの親である山中教授のコメントは注目すべきである。山中教授は今回のiPS細胞の移植というニュースを高く評価しつつも、「まだ(iPS細胞を人体に移植した場合の)危険性が0ではないので、今後も臨床実験は慎重に進めるべきである」としている。iPS細胞の生みの親として大変重い意見であると思う。